人生って・・・・

これは、CROWS、WORST、QP等の漢にあこがれるへっぽこ野郎が日々書き連ねるたわごとです

2008年07月07日(Mon)▲ページの先頭へ
人間の欲望のイデアって?
 今月に入ってちょっと鬱な時期が続き、ブログを書く気力すらなくなっていた。そんなときは、歌舞伎剣もボコボコに負けてしまうものだ。理論上勝てる台を打っていてもヒキがついてこない。そういうものかもしれない。私はとにかく今「心が乾いている」状態だ。何をやっても心が満たされない。本当に自分が望むものとはなんだろう。それすらもわからない。身体的なものではなく、精神が満たされる欲望。それは欲望の根本、プラトン風に言えば「欲望のイデア」を求めていること。普通の欲望ではもはや私を満足できない。私が本当に満足するものはなんだろう。人生って何を求めれば本当に満足できるのだろうか。

 人間は何のために生きているのか?答えは人によって様々。いいもの着ていい家に住んでとにかく贅沢しまくる。そうなりたいから。学問の真理を追い続けるためにと答える人もいるだろう。世界最強の格闘家になりたいからと人もいるだろう。しかし、人間の願望・欲望は際限ないもの。そしていずれ誰しもが物理的欲求に限界を感じ、心が満たされない状態を体験することだろう。

 そのとき、よくあるパターンでなんかしらの宗教に逃げ込む道をとってはならない。それは自分のなかにある「心の乾き」「欲望のイデアを探そうとすること」から眼を背けているだけである。宗教に傾倒してそのときは満たされたように錯覚しても、この二つの問題と真剣に向き合っていないのだから、またいずれ同じ問題にぶつかるだろう。そりゃあ、向き合っていても簡単には解決し得ない、下手すれば一生解決できないかもしれない問題だろう。それほど大きな問題ゆえにこれらから逃げてはならないのだ。


「人間は何のために生きるのか?そして自分は一体どうすれば心が本当に満たされるのか?」


 この疑問は、周期的に私に降りかかる。そもそも生きるとはどういうことなのだろう。「心の渇きをかき消すことができない」「欲望のイデアを見つけることができない」と絶望したときに人間は自殺を選択する。そしてそれが歪んだとき、他人への殺意へと向かうこともある。

 この記事をよんでいるあなたは、自分は本当に心が満たされているのかを考えたことがあるだろうか。前に書いたマズローの欲求とも関連する話かもしれない。物理的欲求が満たされたあとは心の渇きを深く感じ取るようになる。故に、他人からうらやましがられる金持ちは必ずしも幸せではないと言えるかもしれない。

 男女関係も、お互いの心の渇きを癒す存在を探求することに尽きる。カラダのつながりを求めたいという欲求もあるが、それ以上に大切なことは「お互いの心の乾き・渇望」を補い合える関係であろうとすることではないか。そしてそうありたいがために男女交際には感情論以上に「考える癖」が欠かせなくなる。どちらか一方が、または両方が欠如していれば互いの「心の乾き」を癒せるところまで考えが行き着かない。それ以前に「男女関係とは何のために存在しているのか」という議論にまでとどかない。

 あなたの彼氏、彼女はお互いの「心の乾き」を潤してくれる存在であろうか?それを実感する前提の「考える癖」は持っているだろうか?「心の乾き」「欲望のイデア」に対し一人よりも二人で向き合えばそれだけ解決への道に近づきやすくなろう。

 同じように、真友も互いに「心の乾き」を理解し議論しあう関係であるのが理想的。私のように「恋愛ではなく友情」を優先して生きることを選んだものは特にそう。勿論お互いに「考える癖」を持っていることが前提だ。それがなければ互いに真友には成り得ない。

 つらつらと支離滅裂に書き連ねてしまった。書いても書いても「心の乾き」が潤せないものなのだが、書かずにはいられないのだ・・・・・・・・。


2008年07月03日(Thu)▲ページの先頭へ
へりくだることと卑下すること
 前々から思うことであるが、うぬぼれる輩ほど醜く、パウンドかましてぶん殴りたいものだ。自分の容姿がちょっとよいからとか、頭がいいからとかで天狗になるものほどみっともなく興ざめするものはない。誰だってそう思っているはずだ。

 で、自分をへりくだって扱う姿勢が一般的には好まれる。ただ、これも行き過ぎると自分をわざわざ卑下する→間接的に相手に取り入る・媚を売るほうに取れなくもないため、これも限度がある。何事も行き過ぎてはいけない。自慢することもへりくだることも、人間関係すべてに限度があるのかも知れない。

 一番親しい友人関係でも、限度はある。その証明たる言葉は「親しき仲にも礼儀あり」というもの。まったく気遣わない真友同士であっても、最低限の礼儀をみせること。そしてそれはお互いに恥をかかないことや、お互いを尊重することにもつながる。
そして真友とは互いへの気遣いが無意識で行えるよう習慣づいた関係であることが課せられる。

 上司と部下、兄貴分(姉貴分)と舎弟にも限度がある。下のものが上のものに気遣うだけではいけない。上の者も下の者を尊重するきもちがあってこそ、これらも良好な関係が構築・維持されていくのである。

 良好な人間関係とは、どちらも相手に対しての気遣いがあること。それは立場上どちらが上か下かなんて関係ない。


2008年07月01日(Tue)▲ページの先頭へ
出来れば他人とは関わりたくないものだ
 最近はっきりと分かったことがある。私は人間そのものが嫌いであるということ。その思いをどう否定しようとしても、自分の人間嫌いだけは自覚してしまう。故につきあいは狭く深くであり、出来ることなら煩わしい他人の輪の中に入らないように暮らしたい。意識する以前の問題で、人間そのものが嫌いだから、他人とのチームワークなんて取れるはずがない。

 なるべく他人と関わらずに生きる方法なんてめったにない。人間は人間と関わらずに生活することは不可能なり。それが分かってしまっているからこそ、仕方なく他人と関わって生きているに過ぎない。

 現代社会で他人と極力関わらないで生活しようと思ったら、会社組織に属さない生き方をするしかない。ただ、その方法はほとんどない。唯一私が知る方法は、昔のようにパチンコ暮らしをすること位か?しかし、他人に干渉されにくい自由を得るためには、安定した生活を棄てるというリスクがかかってくる。それでも、私のような奴はパチンコ暮らしが出来る環境であればそちらのほうが向いているのかもしれない。今ならば覚悟を決めてそっちの道に戻れるだろう。まだそこまで精神的に病んでいるわけではないので、社会生活に順応しようと努力は続けよう。

 いざとなればパチがある、という覚悟を持てば他人とのかかわりなんてちいさいものかもしれない。ただ、他人ほど面倒で億劫なものはない。


2008年06月28日(Sat)▲ページの先頭へ
本音で生きること
 大人になるにつれ、一つ歳を重ねるにつれ、本音で生きることは難しくなっていく。それは人間社会と言うものが嘘偽りで塗り固められているもの、またはそうでなくば成り立たないものであるからだ。嘘も方便という言葉があるように・・・・・・。

 子供の頃、我々は「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉を何度も聞いただろう。しかし、現実はそうではない。政治家だって、大企業の社長だって、はたまた警察関係のお偉いさんだって嘘つきまくりだ。詭弁と欺瞞だらけの世の中。何が真実で何が嘘なのかも見抜けないまま過ごさねばならないし、そして我々の大半は忙しすぎてそんなことを振り返る余裕もない。

 漢を目指すものとして、一人ひとりに体当たりで突き当たって生きたいわけだが、現実はなかなかそうもいかない。こちらが本音でぶつかりあっていたくても、相手がこちらを騙し欺こうとする場合だってあるから。まず見ず知らずの他人には警戒しなければならない。危険な人間には本音だけでぶち当たるのは馬鹿だから。でも、できることなら誰だって本音でぶつかりたいはず。嘘偽りなく生きていたいはず。皆常に「俺の生き方はこれでいいのか?」「自分の生き方に嘘をついているのではないか?」ということを思いながらも向き合わないようにしている。それを思ってもどうにもならないし世の中が簡単に変わるわけではないから。

 非効率な生き方だと分かっていても、私は出来るだけ本音で生きていたい。本音を通すことにより、初対面での親交の深め具合も違うから。勿論、ちょいと話してその人間が信用できるかどうかを判断した上で・・・・・・・。ん?そうして値踏みする時点で本音を通すことではなくなるのか?人間関係って難しいし、とっても疲れるなあ・・・・・・・・。


2008年06月27日(Fri)▲ページの先頭へ
ギャンブルが違法な意味が分からない
 先進国で、カジノがおおっぴらにできない。ギャンブルが違法として取り締まり対象になってしまうのは日本だけではないか?競馬、競艇、競輪は普通に公営としてあるくせに、そしてパチンコは?これほど矛盾だらけの状況を晒している国はほかにないだろう。

 連日闇スロや闇カジノで摘発されるニュースを見て、いつも疑問に思う。解禁すると破産者がいっぱい出るからとか、もっともらしい理由をのたまう識者がいたりするがそうでもないと思う。やろうと思えば(今は違法である)ミナミや歌舞伎町で闇賭博を探しに行けばいい。やりたくなければやらなければいい。ただ、人生を冷静に考えるとそれそのものが「ギャンブルに始まりギャンブルに終わる」と言えるのではなかろうか?そして、ギャンブルの醍醐味とはなんだろうか?

 私が好きなパチンコも、今時誰がお遊びと思うだろうか?パチンコは馬、チャリ、船に比べてはまる人も多い。所謂依存症?ただ、私のように逆にそれがあったからこそ立ち直れた奴もいることをここに主張する。歌舞伎の振り落とし、最近では海の魚群もちょっと気持ちイイ。特に振り落としは心が洗濯されるようでなんともいえない。不謹慎だがマジで激アツアクションの当りはセックスよりも気持ちイイと思う。

 そんなことは今どうでもいい。ギャンブルは、実は考えてやるものだろう。特に、福本伸行氏の有名な賭博漫画「カイジ」はその心理描写を上手いこと描いていると思う。刺さりそうなアゴに関しては敢えてノーコメントで(笑)。ギャンブルとは考えて其の末に読みどおり勝つことに快感を覚える。本当のギャンブラーとは依存症にはならない。そこから人生哲学を学ぶ者だっていくらでもいる。だって人生自体がそうなのだから。誕生、受験と進学、就職、結婚。重大な局面はすべてそう。東大に行ったとしてもまだ人生のギャンブルに勝ったとはいえない。社長になってもまだまだギャンブルは続いている。以前話題になった六本木ヒルズ族の話題とかを見てもそう思う。意外と人生をギャンブルそのものと悟る人っていないよな。だから賭博法を廃案してしまえという声があまり聞こえないのか。

 日本にもおおっぴらにカジノが出来ればかなりの経済効果があろう。乱暴な言い方だが、破産したい奴は勝手に破産すればいい。そんな奴はもはやギャンブラーではない。先ほども書いたように、今の賭博法がある状況でもしたい奴は馬、チャリ、船、パチンコ、各種裏賭博などに足を運ぶ。破産したい奴は勝手に破産する。裏賭博は特に流れる金が大きく、それはほぼ本職さんのほうに流れる。それが賭博解禁なれば税金として国に入るのだ。公営カジノを作れば賭博税ができる。それを丸ごと福祉に回せばいい。赤字国債の返済にもあてろ。むしろそうするしか今後の日本の財政建て直しはないのではないか?


2008年06月25日(Wed)▲ページの先頭へ
行動力、そして遊び心、そして生き銭とは?
 2週間近く前、私は突発的に一ノ瀬萌姐さんのところへ杯をもらいに(まぁ、舎弟になるつもりで)行った。その様子はここを参照しておくれやす。そのときに姐さんに「夕方まで京都にいて、そこから歌舞伎町にって行動力あるね」と言われた。時に、人間どうしても今やらねばならないと思う・感じるときがあるはず。そのときは素直に自分のその感覚に従わねばならないと思う。

 計画性なんてまったくないことこの上ないものだ。しかし、それが出来るかできないかでは大きな違いがある。あのとき無理してでも行動しておけばよかったと後悔するくらいなら、大金はたいてでも行動するほうがいい。今すぐやらねばならぬと直感で感じたときはたいてい行動後なんらかの有益な経験が得られることのほうが多いように思える。行動力があるかないかは、その直感に素直に従えるかどうかということではないだろうか?

 自分のことですらあれこれと迷うような輩は、行動力なんてない。そして行動力がないものは遊び心も育たない。遊び心とは経験値豊富な人間。経験することにより考える癖を養った者。故に色々と飛んでまわり、遊びまくった人間はそれだけ色々な経験をしてきたのだから遊び心たっぷり→余裕ある人間になれるのだ。さらに極めれば所謂粋人という領域にまでいきつく。

 ちなみに、あのとき歌舞伎町にふらっと逝ったとき新幹線代も含めて10万以上一晩で使った。ただ、姐さんの舎弟になることはできたし歌舞伎町も再び堪能できたし10万以上の経験値を得たと思う。目的を持って使う銭は生き銭である。遊び→考える癖につながる銭は全て生き銭になるのであろう。逆に言うといくら貯金しても自分の経験値を得るためにならぬ銭は死に銭である。貯金のみにいそしむのもよいが、貴重な若い時間がその分失われるのであれば、それは死に銭といえるのではないか?こんな時代だからこそ、我々のような20代は貴重な時間を作り過ごしていかねばならない。

 他人から見て「何でそんなことにお金を使っちゃうの?」と言われるようなことでも、自分には使った銭以上に有益な経験値を得られるものであれば、その銭は無駄遣いではない。使うべくして使う銭であり、それは立派な生き銭。ただし、何でもかんでも使いまくるという、目的なき銭の使い方は死に銭となりそれは無駄遣いとなる。

 お金を使うのも、貯金するのも、やり方と目的の持ちよう次第では生き銭にも死に銭にもなる。理想なのは、生き銭として使う分と貯金分をきっちり使い分けることである。お金こそまさに中庸が理想ではないだろうか?
 


2008年06月24日(Tue)▲ページの先頭へ
私は今やばいかも?
 間違いなく、今私は慢性的な病み状態にあるだろう。頭の奥底に潜みつつ、何かあるたびに暴れだす「人間とは?生きる意味とは?」という悩み。他人との接触・同調が苦手、いやむしろ嫌い・面倒な自分にとって凄く鬱なテーマにもなる。

 人間って、一人では生きられない。これ事実。そして「考える癖」を寝るとき以外サボってはならない。品格・空気を読むことは凄く大事といつも言っているくせに自分は場を読むことが苦手。だから、他人だらけの中だと凄く気を遣って病みそうになる。そんな時、闇の自分はいつもこんなことをつぶやく。

「うぜぇ・・・・・・。みんな消えてしまえばいいのに」
「人間なんて自分さえ良ければいいんじゃない?」
「集団になじめない人間は悪なの?お前ら消えろ」

 うわあ・・・・・・。俺病んでる?そうだな。全てここからなんだよな。元来他人なんて面倒、出来ることなら関わりたくない。人に合わせることほど苦痛なことなんてないから。自分をさらけ出しても、自分にリスクを背負ってまで他人に理解してほしいとアピールしても、一体どれだけの人間が理解してくるの?半分以上は無理?じゃあそんな労力って無駄じゃないかい?闇の自分はそんなことを囁いてくる。

 何もかもめんどくさくなる。ホント、秋葉原の事件は人事じゃないなあ。親近感を覚えること事態普通の人から見たらは異常かもしれない。きっと、硬派を目指そう・未熟ながら人間力を修行しようとしていなかったら私も同じことを起こしていたかもしれない。ああ、やはり人間であることは理性があることなんだろうな。その理性は「考える癖」を作る礎となるもの。

 ここは私の心の闇・人間についての疑問を書き連ねる場所。だから、どんな危ない闇でもかきなぐる。ほとんど理解してくれなくてもいい。数%くらいの、一握りの数でも共感してくれる人・意見をくれる人がいてくれればそれでいい。そうすれば、まだまだ人間も捨てたものじゃないと思えるだろうから・・・・・・・・。
 


2008年06月22日(Sun)▲ページの先頭へ
自分の人生の今後について
 はっきりと言えることは、10年後も100%独身でわが道を行く生き方をしているということ。26で既にフツーの幸せに疑問を持っている。家庭を持つ自分なんてまったく想像できないしどうでもいい。私の年代になると、次々と結婚し家庭を持つものが増えてくる。私も友人の結婚式に足を運ぶ回数も増えてきた。

 又聞きでパパ・ママになったのかという話もちらほら。落ち着くってこういうことなのかなと思ったりもする。ただ、落ち着いたと同時に人生への探求も忘れてしまってはいけない。フツーの幸せを持ったままそれも持ち続けるケースは少ないし難しい。フツーの幸せをもつことは無茶できなくなること。そういうもんだと聞いた。何かを得るためには何かを捨てなければならない。ただ、私が家庭を持ってフツーに落ち着く姿を見たら、それでいいのかと感じてしまう。家庭を持てば仕事とそれの往復の生活。そしてそれが淡々と毎日繰り返されていくのみ。ただ機械的に仕事→家庭→仕事→・・・・・・・・・の生活でしかないのではないか?それを想像すると、人間はなんで生きているのか?人間は何のために死に向かって進んでいるのだろうか?一度しかない人生の過ごし方はどういうものが一番幸せなのだろうか?最近そんなことばかり考えている。

 お金持ちは本当に幸せなのだろうか?エリートは本当に幸せなのだろうか?そもそも本当の幸せって何?誰か私に的確な答えまたはヒントをくれ。

 本当の幸せって?今後これを模索する旅が続きそうである。


2008年06月20日(Fri)▲ページの先頭へ
裁判員制度について考えてみたい
 秋葉原事件のこともあり、来年から導入される裁判員制度について考えていきたい。まず、これは何故今導入されようとしているのか?一時期報道されたときもあまりその理由や背景が説明されてなかったような気がする。いつのまにか来年施行されようとしている。

 国家から選任された一般国民が裁判官とともに一つの事件の裁判を手がける。重大な事件に限られるようであるが、一人の人間の死刑・懲役年数を決めるのに我々も加担することになるのだ。この意味は極めて重い。まず、裁判官というものに対し個人的には「公務員の中で最も公平さ・責任・倫理観が課せられる職業」であると思っている。裁判官は被告の有罪・無罪からムショ送り、そして死刑判決まで一人の人間の行く末を決めるからである。死刑についても考えると生存についてまで決めることが出来るのである。よって裁判官は相当な覚悟をもって裁判に取り掛からねばならぬ。特に最高裁判所裁判官の責任感は一般市民では想像もできないようなものであろう。

 裁判員制度で選ばれたらば、同時にその人間もその「一人の人間を裁くということ」について真摯に考えなければならない。相手がたとえ自分の親しきものであろうとも、公正に・倫理的に裁かねばならない。ある意味マシーンとして個人の感情を押し殺さねばならない。国会で決めるのはよいが、議員の先生方は「裁判」についてその重大さと裁判官の職務の重さがまったく分かっていないのではないか?仮に、私がもし秋葉原事件の被告の裁判に裁判員として出席することを選任されたらば、簡単に無期懲役・死刑判決を選べない。彼について調べれば調べるほど自分との類似性が明らかになり、人事ではないと思ってしまったから。そしてその個人的感情は捨てなければならない。それを捨てて考えたら、彼はどうあがいても死刑を免れることは出来ないという結論しか出ない。ただ、いくら凶悪殺人犯とはいえ一人の人間の命を左右する判決を自分が決めるきっかけを与えることが容易に出来るのか?

 裁判員制度は、果たして本当に必要な制度なのだろうか?今後暇を見つけては文献・専門書を読みつつ考察していきたい。


2008年06月19日(Thu)▲ページの先頭へ
退屈な人間に囲まれてたまるか!!!!!!!
 平凡な生活・普通の幸せというものは人間の「考える癖」を退化させていく。そしてそうなる者はそうなる者同士がよりそうものだ。個がない平凡な人間に成り下がってしまう。そして最悪ただのヒトになる。日々の生活に対し何も感じない・何も疑問を持たない者など何の魅力もない。退屈な人間に成り下がったものは遊び心を知らないし一緒にいても面白くない。そして、そんな人間とずっと一緒だとこっちも知らず知らずのうちに染まってきてしまう。ゆえに、時には人間関係の洗濯が必要になるのだ。

 これは、仕事関係・友人関係・男女関係すべてにあてはまるさらに面倒なことに、平凡な・普通の幸せな生活を送る多数派はそれを否定し挑戦する者を説得しようとする。説得して普通に幸せになることを強要する。平凡な幸せと退屈は紙一重であることを隠し自分達のもとへ引き戻そうとする。

 幸い私の友は、普通の幸せを否定し自己を高める者が多い。刺激しあえるもの、お互い切磋琢磨できる他人が友であり、そのなかで「義とスジという丈夫な鎖でつながれた関係」が真友である。親友ではなく真友である。

 さらに、真友はお互いの成長のために、お互いが自己を高める修行を怠ってはならない。成長速度の違いはあれど立ち止まることはお互い許してはならない。妥協したらあなたの人間力はそこで成長が止まる。死ぬまで走り続けなければならない。年老いて真友が先に死んだとしてもあなたは止まることを許されない。

 人生で最も必要なものは、私にとっては恋人ではなく「真友」なのだ。そして真友同士というものはお互い刺激しあえる存在でなければならない。退屈な人間に囲まれてしまったら、そういう貴重な存在を作る機会が失われてしまう。真友なくして己の成長は出来ない。逆に真友を見つけるためには己が日々精進せねばならない。

 


では、他人の心を開くには?
 人生は基本警戒して生きるべし。寝るとき以外気を抜いてはいけない。無意識で考える癖を実行できるまでにならなければならない。これまで私は常々ここでこう呼びかけてきた。では、自分にとって信用できる相手をどうしても作りたい場合は、どうすればよかろうか?

 これはあくまでも私の経験のみのことだが、こちらが裸の自分をさらけ出すことである。そして「義」と「スジ」を重視するつきあいをしたいとアピールすることである。会話の流れや自身の態度で裸の自分をさらけ出し、義とスジを重んじる奴であると理解してもらえれば警戒心は解けるだろう。どんなに悪どい者でも、8割がたはこれでいけるはずである。ただ、残りの2割は注意しなければならない。あなたがまっすぐ付き合いたいと思う心を逆に利用しかねないから。

 あなたがまっすぐ付き合いたいという思いを踏みにじる輩は、斬り捨てろ。そういう輩には情け無用である。逆に残酷に扱うべし。他人の痛みを知らぬものは己の痛みとして味わったことがないのだ。スジを通せないものにはそれに見合った罰が必要である。故に、凶悪なる殺人罪の罰として死刑が存在するのだ。他人の痛みを省みぬものには自ら身をもって味わってもらう。そういう意味では死刑はスジが通っていると思う。もし死刑をなくすなら、ある意味死より重い終身刑、そしてその終身刑の中にも「死んだほうがまし」と思える刑罰ランクを作らねばならない。オウム並みの凶悪な殺人ならば「強制労働型終身刑」がよいだろう。もちろん一生ただ働きである。流石にタコ部屋とか戦時のような相手を殺すほどの過酷なものにはしてはならないだろう。まあ倫理上の制限はあるが、人間は終わりなき労働に対し絶望を覚える。体力的ではなく精神的に絶望させることで悔い改めさせる終身刑である。

 他人の心を開くためには、己が博打を打たねばならない。己が体を張らねばならない。そうすれば、どんな性格が悪いといわれる奴でもたいていは心を開かざるを得ないだろうから。そして、その心の開き具合は、あなたの「人間力」の度合いで決まってくるのであろう。


人生気を抜けば、ケツの毛までむしられる。そう思うべし
 人間一人当たり、一生のうちに知り合う人間なんてたかが千人にも満たないのではないだろうか。下手したら百人程度だってこともあるかもしれないし、一万人もいるかもしれない。ただ、普通に生活していたらこの程度だと思う。

 そのなかで、あなたが親しくなるのは多くても数十人まで。そして最終的に残る友人はたかだか十数人程度だろう。最終的に残った友人のなかでも、本当に信用できる、命を預けられる・言うなれば走れメロスのような友人は2人〜5人までだろう。我々はそれだけ信用できないどころか用心しなければならない人間に囲まれて暮らしているわけだ。騙し騙されという関係だったり、出世競争等で蹴落としあうものだったりと争うことも多い。いやいや人生なんてすで高校受験で「他人との競争・蹴落としあい」が始まっているのである。もっと早ければ中学、いや更には小学校のお受験でそれが始まってしまっている。

 就職活動も、所詮騙しあいと蹴落としあいでしかない。面接なんて本音でとおそうとしたら受かるものも受からないのがほとんどだろう。そういうものである。大人になるにつれ、人をまず信用するのではなく警戒してかかるのが当たり前となる。現実を知るからである。

 よって、人生という戦場を生き抜くための武器は「考える癖」となろう。やはりここなのだ。これがあれば警戒心をつねに抱くことになる。騙されないように堅いバリケードを張ることも可能。自分の脳みそこそが社会で生きるための唯一無二の武器であり更には防具である。考える癖はそれほどまで重要なものである。

 信用できない、下手したら敵だらけの中で生きることになる。それが人生だ。我々が気を抜いていいのは、死ぬ直前でしかないのだ。


2008年06月18日(Wed)▲ページの先頭へ
価値観の違い
 生きる目的の違い、何でこういう方向で人生を送るのかという違いは人によって様々。ただ、自分に後悔はしたくない。選択してあとからしくじったという将来が見えそうな・または分からない答えを選んでしまうというようものだけは絶対嫌だ。たとえ他人からはいぶかしがられる人生でも、自分が後悔しなければいい。

 だから、わたしは自分の選ぶままに生きるだろう。結婚?家庭?なにそれ?今どきその当たり前の生活だけに価値を見出す者はいない。当たり前の、フツーの幸せといわれりゃそうかも知れないが、わたしはそれを敢えて拒否する。フツーの生活は逆に言わせると刺激がなくなった生活。ゆるい生活。ゆるい生活は人間の「考える癖」を退化させる。ゆるい生活は普通の人間なら妥協してしまっている状態。一応普通に生活できるからいいかというもの。そういう人は、定年まできっとフツーに過ごしてフツーに老後を過ごすんだろうな。

 でも、フツーってなんだ?つまらなくないだろうか?生きている実感というものを、生きている実感という刺激を感じないまま朽ちていくのは嫌だ。私のこれまでの生活っぷりやプライベートの過ごし方は人によっては無茶苦茶、行動力がへんなところに向きすぎるとか色々言うものだ。そういう人に限ってフツーの人。当たり前の生活を送ってそれなりに貯金しそれなりに幸せな家庭を持つ。でも、それでいいのか?本当はそんな生活に退屈しているんじゃないのか?逆にそう問いかけたい。

 私は今フリーター。公務員用専門学校資金を溜めている最中。バイトのシフト日数が最近減ってそこは不安を感じないわけでもない。だから最近また真面目に歌舞伎剣その他打ち始めた。不安定な生活。でも、不思議と不安はない。いざとなったらパチンコでという覚悟と自信があるから。パチンコも昨今のスロットのようにいつ食えなくなるか分からない。ただ刺激はある。不安との戦いだが今年初めの歌舞伎剣生活は刺激的だった。パチ屋→夜の街→パチ屋→繁華街→夜の街→以下繰り返し。普通じゃないねこの生活。そのかわり刺激はたっぷりある。

 人生に本当に必要なのは人生の長短ではなく刺激の度合い。一度しかない人生だから、しっかりと「人間らしく」謳歌して死にたいものだ。私が望む死に方は、パチンコ台で歌舞伎剣振りおとしみたいな激アツアクション→大当たりの瞬間の興奮死。おじいちゃんになってそうしてぽっくり逝っちゃったらお店としては迷惑だろうけど、刺激の中で逝きたいものだ・・・・・・・・。


2008年06月16日(Mon)▲ページの先頭へ
人間について考えていこう
 人間とヒトの違いはなんだろうか?語源とか漢字のもともとの成り立ちそんなの無視して書いていくので突っ込まないでいただきたい。それは「考える癖」「理解力」の違いではなかろうか?それらがなければケモノとしてのヒトであり、人間ではない。私が今後取り扱う「人間」とはそれらがちゃんとある存在である。

 特に、歳をとってからのヒトとしか見られない者は恥ずかしい。仕事が出来るから人間らしいとは限らない。プライベートではヒトに成り下がってしまう者もいる。そういう者は自分の我侭だけを通そうとするし、考える癖がないので気遣いとかはない。キャバクラとか、風俗とかに行くと大半はヒトである。風俗はともかくキャバクラ等お水は「人間として」節度を持って楽しまねばならないと思う。

 人間から考える癖を取ったら何もない。その辺の動物と一緒である。だからヒトである。生物の教科書で人間を「ヒト」と表記していた。それは人間を生物学で分類して霊長類の項目を勉強するときのやつだったな。動物はカタカナだったし、人間も一緒にカタカナで動物の一種として扱っていた。だからこういう書き方で話を進めている。人間は考える葦であるという名言どおり、人間と考える癖は切っても切り離せないのだ。

 酒を飲んだり、博打をしたり、異性といちゃつくときとか、そういうときに「考える癖」を忘れてしまいがちだ。そこでこれを出来るだけ意識し、さらには無意識でこれを頭の中に置けるようになればかなりの人間力がつくだろう。人間として究極の高みを目指すには寝るとき以外「考える癖」を忘れてはならないのだ。

 そして、考える癖がつねに実行できる人間になれたならば、それを用いて友人等を啓蒙していかねばならない。いや、これが出来るようになれば自然とそういう人間が集まる。又は友人も刺激を受けてそうなっていくはずである。人間関係もこれをもとに洗濯されていくのだ。さらには自分より高度な人間と交流できるチャンスも芽生える。そういう人間と知り合う機会が増えれば、それだけ自分が成長できる機会も増えるのだ。

 私はまだまだダメ人間である。酒が入るとどうしてもまだ平静を保てない。アツくなりすぎると突っ走って語りすぎてしまう。プラウディアに行ったときも後半はその癖で反省すべきところがあった。キレイな酔い方とは「考える癖」を保ったのみ方であろう。人間らしい振る舞いをサボらぬよう、日々精進しなければならない。


2008年06月14日(Sat)▲ページの先頭へ
ジェレミー=ベンサムについてふと考え出した
 「最大多数の最大幸福」の名言、功利主義哲学を作った哲学者である。私は彼の哲学論についてはほとんど知らない。しかし、先日のプラウディアでの姐さんとの「幸せとはなにか」という話を終えて急にこの言葉が気になった。よってちょっと考えてみることにする。

 全てのものが幸せになる社会のことなんだろう。それがこの名言の示す意味ではないだろうか?では、それを作るためにはどうすればいいのか?飛躍すれば国家レベルの話になるだろう。戦争をしないこと、平和とは何か?個人レベルまで落とせば友人を作り信頼関係を築くこと、そして喧嘩せずに皆仲良くやること?

 では、どうやれば皆が争わずに秩序ある生活ができるか?この項目は、「権利のための闘争」という法学論諸とつながった内容になるのではないか?うむ、まずはこれを読みきってから彼について考えていこう。


2008年06月12日(Thu)▲ページの先頭へ
自己満足と権利を守ること
 これは人間として両方兼ね備えていること。自分の欲望・自己満足を追い求めるために、人間は権利を主張する。ただし、これは人類60億人いれば60億通りの権利主張がある。そのなかには他人を蹴落として自分さえよければいいという行き過ぎた自己満足がある。

 人間は万人の生活・安全を守るために法を制定した。法は万人が快適に生活するための基盤である。法があるからこそ殺人・詐欺・強盗・傷害などが取り締まれるのであり、これら法はさまざまな議論あって勝ち取ってきたものだ。法学者イェーリングによればそれら法はこのように闘争によっての賜物だという。まあ、国会の議論は闘争といってもいいものかな?暴力ではなく言論での闘争とも言えなくないよな。

 おそらく、昨今の通り魔事件や凶悪な殺人事件により「死刑廃止論」も論争が巻き起こっていくことだろう。これも立派な闘争ってことか。その結果によりこれに対しての法案がまとめられるのだな。それを100年以上前に定義していたこの人すごいよな。改めて思うね。殺人者の自己満足と権利主張により他人は蹂躙され生きる権利まで奪われた。もし法がなければ人類は滅亡するだろう。それを避けるための法。万人が安全に生活できるためのもの。そう考えたらいかに法を犯すことがいけないことか。容易に想像できるだろう。

 自己満足と権利を守ること。そのためには法を守らなければならない。それは万人の生活を脅かさないことが結果自分の生活の安息を永らえるのであるから。


人間だからこそ必要なもの
 唯物論という考え方がある。物があるという前提で論議する考え方である。もともと私は理系の大学出身のためこの立場の考え方を好んでいる。よって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という考え方に納得できなかった。ちょっと難しいが、唯物論の反対とされるのが観念論らしい。デカルトは観念論側かな?

 昔はプラトンのイデア論もわからなかった。観念論的な感じがするから。アリストテレスは師を批判し「美しいものの根本にこそ美しいとされる元が存在する」といった「原因論」を展開した。古代でもっとも有名な唯物論かなあ?と個人的には思う。彼によれば物事が何でできているかが「質料(因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源は「動力因」、そしてそれが目指している終局が「目的因」である。ただ、今は両方の言い分がなんとなくわかる。まだうまく咀嚼できてはいないけど・・・・・・・。

 これらのことは、わたしにとって「物事の根本は人間があること」からすすめていくべきと思う。人間であるからこそ、物を定義しイデアや原因を定義するのではないか?人間の脳・理性あるからこそ物が定義されたのではないか?人間の「考える癖」あってこその賜物が哲学ではないか。仮に椅子があるとして、動物のままの脳であるなら、人間はそれを椅子と定義しないだろうし椅子としての目的も使い方もわからないだろうから。

 哲学って、すごく難しい。けど、人間が生きるためには必要不可欠だろう。人間であるゆえに人間は苦しみ、悶え、暴走する。前回秋葉原通り魔事件は人事じゃないと書いた。彼の生い立ちや経歴は私と似通ったところが多いから。彼はもともとまじめな人間だったのだろう。そして、考えすぎた人間だったのかもしれない。私は以前から「考える癖」が大事だと書いている。ただ、やはりなんでも行き過ぎるのはよくない。一人で悶々と考えすぎると暴走に行き着くのだ。それを回避するのが哲学ではないかと個人的に考える。

 人間が脳を、理性を持ったからこそ哲学、そしてそこから諸学問が生まれ発達した。そして今日の我々の生活基盤となりえた。だからこそ、人間は「考える癖」を放棄してはならない。ジョン・ロック「人間悟性論」では重要な内容がある。物事を議論する前に自分たちの「考える力量」のレベルを知らなければならない。でなければ議論の幅が狭まり高度な議論は望めない。ああ、まさしく「考える癖」を普段から怠ってないかがそのレベルを高く持っていけるのであろう。「考える癖」があればあるほど同じ経験でも吸収する容量は大きくなりそれだけ人間として成長できるのだ。

 我々は人間である。人間であることはどういうことか?いかなるときもそれを忘れてはならないだろう。


2008年06月10日(Tue)▲ページの先頭へ
秋葉原通り魔殺人事件はひとごとではない
 事件を起こした被疑者がやったことは許されざることである。しかし、彼の生い立ちが報道されるにつれ、ひとごとではないように感じている。中学時代まではいわゆる優等生。真面目にすることが人生を明るくすると疑わなかった。高校→短大→今とどんどん挫折と敗北感の負のスパイラルから抜け出せなくなっていく。私も、中学時代に一週間位家出して関西を転々としていた過去がある。真面目に勉強することの意味が分からなくなったこともあるし、大学院も無意味さを感じてやめた。うん、真面目に考えすぎたから人生に生きがいがもてなくなったのかな。同情してはいけないが、彼の負のスパイラルはちょっとだけ理解を示せるかもしれない。自分と似た経験がたくさんあったから。

 彼のケータイ掲示板での鬱な書き込み「自分は不細工だから・・・・・・、女なんて出来ない・・・・・・、人生疲れた・・・・・・・」等。うわぁ・・・・・・・、ワシも過去おんなじこと思ったことあるよ。ただ、私がそんな状態から立ち直ったのはパチンコ・スロットとPRIDEがあったから。そして我妻涼を知ったから。ヴァンダレイ=シウバの心・肉体的強さ、格闘技の世界観、高橋先生の漫画の漢達、こういうものを知ったらそれまでの自分がいかにちっちゃいか、そんなことで悩むのがあほらしくなったよ。彼の場合は、立ち直るきっかけを探すことすら放棄していたのだろうか。それともその気力さえなくなっていたのだろうか?

 昨日もミナミで、Y嬢やショットバーのマスターとか色々な人たちと「人間について」「恋愛と考える癖について」など哲学的議論になったなあ・・・・・・。倫理と人間についてマスターと論争しているときにこの事件の考察もしたよ。追い詰められているときこそ、「考える癖」を放棄しないよう理性を保たねばならないんだよな。すっごく難しいんだけどな・・・・・・・・・。この事件がきっかけで、また哲学書・思想系統の書物を読んでいる。人間は学習を放棄したら終わりなのだから・・・・・・・。


2008年06月08日(Sun)▲ページの先頭へ
殺人は何故いけないのか
 秋葉原通り魔事件は、衝撃の一言で片付けるわけには行かない。池田小通り魔事件から丸七年の同じ日。同じ悲劇が秋葉原で起きた。一人の人間のエゴで多くの人間が犠牲になった。被害者に哀悼の念を示す意味で急遽「殺人について」考える。

 自己の権利が蹂躙されるならば、それは自己の人格までも脅かされる故に権利のために戦わねばならない。これはドイツの法律家イェーリングが述べた主張である。現行犯の男が何を思ってやったのかは分からない。日研総業という、派遣である意味有名なところでストレスがたまっていたであろうことは想像できる。しかし、他人を巻き込んでいい権利はないはずだ。こういう輩がいるからこそ、死刑廃止論に待ったがかかるのである。

 殺されるという危機に直面したら、こちらも相手を殺す覚悟で立ち向かう。これが正当防衛である。誰だって死は怖いし痛く・苦しい。極限の苦痛だからこそ誰もが標的にされたくないのだ。だからこそ正当防衛というものが認められている。「自分がやられたくない」からこそ殺人はいけないことである。たとえどんなに苦境に陥ろうとも、殺人はいけない。勿論自殺もいけない。

 これを読んでくれている方に、まずやってもらいたいこと。特に追い詰められている方にやってもらいたいこと。

「自分で思いっきり自分の顔面を殴る」
「自分で思いっきり自分の腹筋を殴る」

 手加減せずにやってみてほしい。まず殴るという時点で痛いことがすぐわかるので、無意識のうちに加減するだろう。でも、怒り狂ったら他人には出来るんだよな。人間って怖いものだ。この上記の行動をやってみると、他人に暴力を振るうのはいけないなって思うよな。それを忘れないでほしい。でも、殺されそうになったら手加減してはいけないと思う。何もしなければ殺されそうなときにそんなこと考えていたら殺されてしまう。不謹慎だが、私は身の危険を感じたら手加減しない。自分がされたくないことをしてしまうだろう。というか、過去やっちゃったことがある。絡まれて急所を手加減せずにぶったたいて何とか逃れた話をしたときは、友人にはかなり注意された。苦痛が半端じゃないのが分かっているからこそやったのである。ただ、自分から危害を加えようとその知識を悪用してはいけない。それだけは守る。

 遺族の側に立ったら、私は自分を抑えられないだろう。犯人を見たら嬲り殺しにしたいと思うだろう。凄い不謹慎なことばかり書いているが、それが人間だ。これを読んでいる方は、どうか殺人を犯さないでほしいと願っている。


人間関係の洗濯
 またまた「考える癖」についての話。「類は友を呼ぶ」、「牛は牛連れ馬は馬連れ」といったことわざがあるよう、似た傾向にあるものは自然と寄り合いやすい。そして、「朱に交われば赤くなる」という項目とも非常に関連深い。

 人間は、いくつもの出会いと別れを経験する。友人との出会い・時には絶交もあるだろうし、恋愛での出会いと別れもいくつもある。結婚ですら最近は1/3が離婚確率ありという。そこで大事なことが上のことわざ・格言である。友人を見ればその人のおおよその傾向、性格、生活習慣が読み取られてしまう。そして、似た傾向の友人に囲まれてばかりだと価値観が固まってきてしまい自分も周りと同じようになってしまう。これは結構当てはまりそうである。学校での友人達の集まり、グループってそうだろう。政治だって政党や派閥がこれらの格言を証明している。

 故に、自分の成長のためには時として人間関係の洗濯をしなければならない。特に、「考える癖」がない者についてほど洗濯しなければならない。これがないとさまざまな弊害があることは分かるだろう。選択ではなく洗濯。必ずしも切り捨てるわけではない。こちらがまず「相手を変える」ことから手がけようと努力してみよう。何度説得しても相手が聞いてくれない、変えようと努力してくれないとき。そのときやっとその相手を切り捨てるときである。相手は自分言うことをりかいしようと耳を傾けていないのだから当然。そんなヤツは自分にとって害なだけだ。仕事関係のみならば割り切ってしまえばいい。友人だったらもう二度と連絡しないし会うこともない→絶交だ。

 『硬派は友人を大切にしなければならない』というが、自分だけが粉骨砕身しても相手が返そうともしないのでは「友人」として成り立たない。スジが通らない。そういう者はもはや友人ではない→只の他人と割り切ってよい。だから矛盾しないだろう。かつての友人で、絶交した奴がいたがそういう奴だった。あっちは仲直りしたいと言っているらしいが、私はまったく相手にしていない。絶交するきっかけの行動ではなく奴のKY、「考える癖」のなさ、下品さに辟易したのだから。後に別の友人とその話をすると皆納得していたのだから、私が凝り固まっていたわけではないということが分かった。故に絶交にはまったく後悔していない。逆にすっきりとしてわずらわしいものが消えた。

 自分にとってわずらわしい、ストレスになるものを消すためには?時として人間関係の洗濯が必要だ。そして、自分が洗濯されていることすら気付かない→切捨ての対象にされないためには「考える癖」が必要である。


如何に考え、如何に行動するか
 仕事は勿論、日常生活でも「考える癖」があるかないかではまったく違う。そしてその考える癖は、直接応対せずとも読み取られてしまうところが結構ある。以前も取上げたことで、ネットの書き込みの文章は匿名性も手伝ってその人の本性が垣間見えるものと思われる。我々社会生活を営む人間は、寝るとき以外油断してはならない。いつ誰かが揚げ足をとるかわからない。極端だが家族、友人、交際相手の異性以外は寝首をかくものという思いで行動しなければならないだろう。

 こんなことを書くと、このブログ初期によく書いていた「人間不信論」「性悪説絶対主義」なことをまた書き連ねるかということになる。人間ならば、絶対に「信用できる」人間とそうでない人間が出てくるはずだ。当然集団の母数に比例する。故に過去の歴史で戦争や論争が絶えなかったのである。

 人の本性はその本人ですら100%理解できない。故に、他人がその個人を理解するのは到底無理。それは当てはまる。しかし、人間のこころを研究する心理学という学問がある。これは一般的にまとめてしまったものであろうが、「人間の心理について考える癖をもって極めようとする者」が作り上げていった賜物と言えよう。

 ブログを立ち上げ、日記+αとしてのものであるがかなり気を遣う。ブログとしてここに書く以上色々と見る人たちがいるわけだ。その人たちになるべく不愉快な気持ちを与えないよう心がけているつもりである。ネットはある意味日常生活以上に「考える癖」が要求されるのではなかろうか。匿名性故に。まあ、まだまだ人間としても修行中であるが故行き届かない点もあるだろう。あと、ここの内容がマニアックすぎることとここで定義する「硬派」についての突っ込みは勘弁していただきたい。と言うか硬派については過去の記事で個人的定義をしているのでそこを読んでほしい。

 人間は、本当に「考える癖」をつけていなかったら哀れなのではないか?特に、借金がそう。私が日々狂っているパチンコも、考えずにやればあっという間に借金無間地獄。故に、他人の保証以外でで借金地獄に陥った者とは付き合ってはならない。己のせいで借金を重ねた者はその時点で「考える癖」がないことが証明されてしまう。また、若いうちにデキ婚→まもなく離婚経験者もそれがないことが多い気がする。たとえ東大卒でも、それがあるとは限らない。そしてそれがあるかどうかはいろいろなところで査定されるのだ。

 経験上流されっぱなしの者は、「考える癖」がない場合が多かった。まあ、それがないから流れに任せるしかないのであろう。如何に考え、如何に行動するか。これは人間死ぬまでサボってはならない。そして、齢をとるにつれてその差は現れていくのだから。
 


2008年06月02日(Mon)▲ページの先頭へ
酔った時にばれる本性・そして品格
 漢・硬派(何度も言うがここでは義・スジ・恋愛排斥・一部禁欲的生活を通すもの)を目指すためには、いつ何時でも油断してはならない。今回は、私が不愉快に感じた+私自身も気をつけねばならないと感じたことである。漢を目指す者としてよりは「品格を持つ人間」としての内容である。

 一昨日のことであるが、バイト帰りに行きつけのラーメン屋さんに行った。地元では結構評判のところである。私が入ったときは、学生集団らしき男女6人と、中年のおっちゃん二人であった。おっちゃんたちではなく、学生集団は酔っ払っていたのか凄くグロいシモネタで盛り上がっていた。しかもこんな内容である。「AVのぶっかけもので精子ってタンパクってよく言うけどあれって美肌にいいんかい?」ってをい待て。そんな非科学的な話あるかい?タンパクより遺伝子だろあれは?

 私はべつにいいのだが、おっちゃんたち二人があまりいい顔していなかった。そりゃそうだ。そのほかここではとても書けないような内容を話していたのだから。仮にも他にラーメンを食っている人がいるところでである。もっと周りを見てくれと言いたい。あまりにひどかったので注意しようとしたらおっちゃんたちは帰っていった。それからすぐに彼らのそういう話は中断し別の話題に移ったのでよかったが、酔っ払ってもちょっと周囲の状況を考えてほしいものだった。

 寄ったときこそ、KYにならずに大人な立ち振る舞いが出来てこそ「品のある人間」ではなかろうか?それが出来ぬ場合、ただの「ヒト」である。人間ではなくヒトである。動物と同じ扱いでのヒトに陥ることを、自覚してほしいものだ。その違いは、考える頭があるかないかだけであることだ。


2008年05月30日(Fri)▲ページの先頭へ
改めて、何のために人間は生きねばならぬのか?
 人間は誰しもが死に向かっている。始まりがあれば終わりがある。どんなものにも始まりと終わり、誕生と死滅がある。永遠に存在し続けるものなんて一切ない。太陽にも寿命がある。いずれ地球もなくなる日はくるのだろう。現在存在するもの全てそれは避けられない運命でありこれはものの本質である。

 改めて、人間は何で生きているのだろう?その答えを見出せないまま・その問いを避けたまま大多数の人間が生死を繰り返している。この問いからどれくらい目を背けなかったかで、人生の価値は決まってくると思う。

 この問いは改めて重いものだ。これに絶望し人生の価値を見出せない、放棄した時点で人は自殺を選ぶ。結構前になるが、自殺は罪であると書いた。自殺はその名のとおり「自分に対しての殺人罪」である。他人の人生もそうだが、自分の人生を勝手に終わらせてはならないのだ。他人に対してだけではなく、自分に対しても課せられた義務である。

 死に向かっているからこそ、人生光輝く瞬間を追わねばならない。しみじみとそう思う。


こんな時代だからこそ礼節が必要?A
 ネットでの匿名性があるからこそ、礼節が必要だということを、前回書き連ねた。補足としてブログのコメント返信について例外を書く。有名人のブログの場合、コメントが多すぎて返信不可能。それはしょうがない。もともと返信しない方針のところだってある。それはそれでよい。

 人が集まるブログは、やはり本人のブログの内容もそうだが、一人ひとりのコメントに対して丁寧に、礼儀正しく答えている。私がここで過去「こういうブログがある」と紹介したサイトは皆基本そういうことにしっかりしている。よく「学・学歴がある人はそういうけじめある割合が多い」と言われるがそれはちょっと違う。如何に考える癖を持つ生活をしてきたかである。雑学豊富な芸能人では伊集院光や品川裕は学歴だけなら高卒以下だ。だが、彼らは下手な大学卒のアナウンサーや芸能人なんかよりいいコメントをするしクイズだって正解率は高い。話の内容や立ち振る舞いを見ていれば知性があるのが分かる。それは彼らが「考える癖」を重視しているからだろう。

 礼節は、この「考える癖」をつけてない人ほどなってないように思う。私ごとき若造が偉そうに言えるものでもないだろうが、いい年こいたおっさんおばはん連中にも礼節なく下品な輩がそこらじゅうにいる。若いうちに無礼なのはまだよいが、年をとってからは凄く恥ずかしい。年をとって後悔しても遅いのだ。

 ネット上で無礼なコメント、誹謗中傷をする輩はほとんどが10代〜20代の世代だろう。彼らはおっさんおばはんになってもそんなコメントをするのだろうか?途中でいけないことに気付く人もいるだろうが、匿名性ということもあって大抵は気付かないのではないだろうか?

 あと、こんな話を聞いたことがある。「ブログで好意的意見のみにコメントし反対意見なるものには一切無視、コメント返さない」というブログも結構あるとかないとか?もし承認制になっているブログでそれをやってしまうととても器が小さくみっともなく思える。普段の生活でも了見が狭いやりづらいやつというのが見えてしまう。承認制のところで公開せず削除ならまだよい。無視対象者のコメントは承認しながらコメント返信は拒否→無視の場合だったら?対象者だったら削除よりも数倍気分を害するだろう。「いっそのこと削除してくれればいいのに(怒)」と思うのではないか?

 これらはすべて、「自分がされたくないことは他人にしてはいけない」ことをまったく考えたことがない輩のやることなのだろう。そんな輩はHPにメアドを公開しない。狭い人間だから。


2008年05月29日(Thu)▲ページの先頭へ
こんな時代だからこそ礼節が必要?
 ブログとは、その個人の性格も読み取れるのではないかと思ってしまう。特に、コメント+それへの返信の仕方によりその人の真面目さ、丁寧さなどがにじみ出てしまうのではないかとさえ思う。2ちゃんねる等は、匿名性により過激な書き込みも多い。それより匿名性は薄くなるものの、ブログもまだ匿名性がぬぐえない。ウソをつこうとすればとことんつくことは出来る。とはいえ長く書き連ねれば書き連ねるほどその人のものの考え方、嗜好などがうかがい知れるかもしれない。

 ブログのコメントは、「匿名性の残酷さ」という点を忘れてはならない。基本目上の人に喋るような感覚で書き込まねばならないと思う。こういうことを書くと「お堅い」と言われるかもしれない。だが、通信手段が発達した現代では礼節が置き去りにされてしまったと思う。ケータイがない頃、連絡をとる手段はもっぱら固定電話だった。同居人がいる故に、時間帯に気を遣うことが当たり前だった。ケータイが出来て、電話どころかちょっとした用件ならメールで簡単に済むようになった。メールなら、見るのはいつでもいいからと送る時間を考えなくてすむ。その感覚でいることになれると、固定電話の適切な時間帯という感覚が忘れられてしまう。

 こんな濃い・マニアックな内容の本性丸出しブログではあるが、一日で500人以上見てくれるくらいにまでなった。ほんまにありがとう。ちょこちょことだけど、コメントもして下さっている方も。本当に日々感謝の気持ちでブログを続けていかねばならないものだ・・・・・・・。

 コメントやコメントの返信に、いきなりタメ語同然で書き込むブログ・掲示板も多い。匿名だからという軽い考えなのだろうか?そしてもっと唖然とするのが、荒しじゃない批判意見を早速消したりつぶしにかかる輩。またその人が書き込んでもシカト。それってどうなんだろう?スジが通らないんじゃない?人間は十人十色。色々意見があって当たり前。議論して人間は成長するものだろう。私はいつ何時でもメール・ブログで受け付けてる。だからメールアドレスも公開しているし、他人のブログにお邪魔するときは堂々とこのブログを公開してコメントしている。何か意見があればメールで意見してくれればいいのだ。コメント欄に書いてくれてもいいのだ。そういう気持ちで構えている。

 私は結構凝り固まって強硬になりやすい性格だ。故に他人からの善意ある批判意見なら積極的に受け付けているつもりだ。ただ、一つだけいわせていただきたい。批判とけなすのは違う。批判するにもルールがある。その人の人格を傷つけてはならない。自分と反対の意見だからとただこき下ろすのはもう醜い。人権侵害に抵触する恐れがある。私もこういうブログを書いているゆえに、メールで色々な意見が来たりした。賛否両論あるよそりゃ。一つ一つに対しじっくり考え、修正すべきところと譲れなきところを色々試行錯誤してやっているつもりだ。そう考えさせてくれるありがたい意見を送ってくださる方は、賛成にしろ反対にしろ「礼儀」や「スジ」を大事にしてくださっている方々だ。だからこそこっちも素直に目を通せるのだ。この二つがない意見なんてただの中傷・罵詈雑言のこき下ろし。目を通す気になんてならない。

 ネットは特に、礼儀をなくしてはいけないところだと思う。


2008年05月22日(Thu)▲ページの先頭へ
遊びを知らぬ人間は・・・・・・
 若いうちから遊びを知らぬもの。これはろくでもないやつだと思う。趣味・趣向を広げようとしない輩と思われてしまうだろう。とりあえず、なんでもやってみよう。いややるべきだろう。

 以前、依存症としての博打はいけないと書いたが、たしなむことは逆によいことである。人生とは生まれてから死ぬまで博打をしなければならない場面が多い。最も身近な例が受験・就職。行き先を決めてからは、その後が決まってしまう。仕事だって向いてるか向いてないかわからない。お金をかけるだけが博打ではない。人間は誰だって博打をやっているのだ。

 酒もそう。依存症はいけないがたしなめないと困る。別に下戸でもいい。酒の席を一緒に楽しめないようなヤツはつまらない人間だ。一緒に遊んでいて楽しいヤツは色々と遊んできているし人生経験も豊富だ。そして何よりも「考える癖」が骨の髄までしみこんでいる。

 将来が不安。だからといって遊びもせずにひたすら貯金のみにいそしむ若者の特集をTVで見たことがある。貯金は必要。備えあれば憂いなし。ただ、遊びを知らずにそのまま年をとってしまうともったいなくはないか?年をとってからはもう無茶がきかない。体力的にも遊びまくれない。若い頃の経験は後の人生に生かせる。違法なことじゃなければ遊びまくっていいじゃないか。節度さえ保てればいいじゃないか。

 遊び心とは、本人がどれだけ遊びまくっていたかによりその量が決まってくる。遊び心がたっぷりのヤツはでっかい人間であることがほとんど。遊ぶことは自分を磨くことにもつながるのである。故に遊ぶ金は自分の中身を磨くとも取れないだろうか?


2008年05月14日(Wed)▲ページの先頭へ
四川大地震と因果応報
 この時期に大地震が起こったこと。これは偶然なのだろうか?しかもチベット自治区が近い。今回の聖火リレーでは、世界各国で様々な妨害、波紋を引き起こした。大国としての礎を気付きつつある中国だが、人権に関してはまだまだという印象が拭えない。

 私は神を信じていない。それでも今回の地震については中国に戒めの意味をもって引き起こされた気がしてならない。今回のことがきっかけとなって、中国が人権問題に本腰を入れてくれるようになったら幸いである。


2008年05月06日(Tue)▲ページの先頭へ
ひとかけらの真実
 フロイトの弟子ウィルヘルム・ライヒによると、どんなに突飛な発言であろうとも、そこにはひとかけらの真実が含まれているという。たとえ繕っていても、話し方や内容でその人の人間性が読み取れるというのはそういうことなのだろうか。

 私のような単純な人間なら読み取る必要はないだろう。自分で言うのもなんだが、とにかく直球しか投げられない。黒か白か。だから駆け引きなんて考えたことがない。と言うか、漢を目指すものがそんなことをしてはいけない。少なくとも日常生活でそんなことをするべからず。と思う。

 ただ、現実は厳しいもので自分を取り繕わねば生きていけない。一人の男女をめぐる駆け引き、ライバルの蹴落とし、友情の崩壊、など男女関係ですら様々なものがある。人間は自分の望みのために、言葉を武器に戦う。腕力で戦うことを規制される世の中であるからこそいやらしくなる。心理学は、そのいやらしき人間社会を分析するための兵法書ではなかろうか。

 ライヒの言葉は、人間の言葉の奥をしめしているのだろう。ちょっと面白いと思ったので、ここに取上げてみた。


2008年05月01日(Thu)▲ページの先頭へ
付き合うのは御免な人種B
 私の中で「酒、異性、タバコ、博打、クスリ」依存してしまう人は、男女共通で関わりたくない人種である。なぜかって?そりゃ前回でも結構話したから割愛。

 依存症は百害あって一利なしだから、できることなら今すぐ縁を切ったほうがいい。どれも依存症はろくなものじゃないが、このなかでもクスリと博打はろくなもんじゃない。男遊び・女遊びが激しいのもきつい。快楽をむさぼり続けるこれらのものは簡単に人間を堕落させる。一度堕落した人間は、もう二度と這い上がれない。魔都・新宿歌舞伎町では上層から下層まで色々な人間を見ることが出来る。あのような混沌とした場所だからだろうか。

 夜の繁華街では、まさに自分の器・心の強さが試される場所である。誘惑が多い。特に男には試練・修行の場となるのではなかろうか。上の5つがすべて飛び交う場所だから。故に漢修行にはもってこいの場所である。

 とにかく、依存の末堕落したものとはつきあってはならない。そういうものは必ずもう一度堕落のサイクルがやってくる。欲望・誘惑渦巻く現代社会だからこそ、強い心が必要だろう。付き合う人種は友人でも恋人でも、欲望に絡めとられぬ心の強い人間であるべきだろう。


2008年04月30日(Wed)▲ページの先頭へ
男と女、付き合っている関係を続けるには?其の参
 このシリーズも3回目。補足も含めると4つめか?自分を磨き続けること、考える癖、感性より理性重視、そしてスジを通せるかどうかの4つを軸に進めてきた。以後「鴉's的4種条件」としよう。付き合い始めてがゴールではない。フルマラソンのスタート開始直後である。恋愛とはまさにマラソン。付き合うまではただのスタート前調整である。

 自分の彼女・彼氏を友人に紹介する場面がよくあるだろう。そのとき、自身が紹介される身ならどんなことをまず大事にすべきだろうか。まずは「彼氏・彼女に恥をかかせてはならない」と思わねばならない。彼氏・彼女の面子を汚さない立ち振る舞いをせねばならない。服装から細かい行動まで出来る範囲はすべて。

 私が友達に彼氏・彼女を紹介される場合、まずそいつの服装から会話まで探りを入れる。最も大事なのは前述の4つを大事にするかどうか。この4種条件のうちどれか一つでも欠けてはならない。特に、考える癖がないこととスジを大事にしない人間に成長はない。自分を成長させようとしない人間はつまらない。それどころか害になることさえある。

 4種条件は、どれもつながっている。彼氏・彼女に対しスジを通す→どうするか考える・この時点で理性をフル回転→自分を磨いてお互い切磋琢磨で堕落しない→良好な関係維持、以後コレを繰り返し。男女がお互いに魅力が感じられなくなった場合、大抵はこの流れが成り立たなくなっている。そんなとき、他に魅力的になる者が現れた場合浮気しやすい。他人に彼氏・彼女を取られたくなかったら立ち止まってはいけない。F1並とまではいかないが走り続けなければならないのだ。お互いに。

 生涯独身主義だからこそ、冷静に傍観できるものだ。付き合っている当人達は、なかなかこうは行かないのかもしれない。前にも言ったとおり「付き合うまでは感性100%」でよいが、「付き合い始めてからは理性70%・感性30%」位に比重を決めていかねばならない。本当に、考えてる癖がないカップルは別れも早い。会話も知性・品性がないし恥さらしものである。


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 管理人・鴉'sについて

 漢・硬派を目指す26歳
 女よりも漢を好む変態!!
 滝川クリステルが最近一押し

 好き 
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  格闘家
  CROWS
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  WORST
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         等多数・・・・
 
 嫌い
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  偽善者
  募金詐欺
  自分が馬鹿だと分からない奴

主義
  生涯独身
  恋愛排斥
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アダルト宣伝系、パチンコ攻略関係は容赦なく削除。リンクフリーです。
 


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カレンダ
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