生涯独身!!!!社会不適合者奮闘記 - 2008/07
これは、CROWS、WORST、QP等の漢にあこがれるへっぽこ野郎が日々書き連ねるたわごとです
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カテゴリ
生涯独身!!!!社会不適合者奮闘記/一覧 (511)
キャバクラ・夜の街 (61)
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2008年07月29日(Tue)▲ページの先頭へ
ぎゃああああっ!!!!!!単発地獄
ぐはっ、カゲキヨちゃん種無し6連発喰らいました。
本日3万やられてただいま心が折れました。 ま、歌舞伎剣は甘デジでも波が荒いね・・・・・。
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善悪とは何か?
善悪とは、乱暴に言えば結果論に過ぎないだろう。道徳ではこれを具体的行為を述べて何故これは善くて何故これは悪いことなのか?ということを帰納する。その根本は、やはり「人間は自己満足を第一に生きること」ではなかろうか。
マーク・トウェイン「人間とは何か」での善行も悪行もすべては個人個人の欲望・願望に忠実に従った結果論に過ぎないという乱暴な理論展開・具体的検証。これは私にかなり影響を与えているようだ。このブログをかなり前から掘り下げて読んでくださっている方がもし居たら、それは丸分かりだろうな・・・・・・・・。事実この本は我が宝物であり人生の指南書である。今も時折読み返している。 オナゴでよく、最終的には優しい人がいいという言葉を口にする光景をよく見る。私はまず優しいという概念そのものに疑いを持つ。それは前述の影響から。善人も悪人も、すべての行為の根本は「今自分がこれを実行したかったから」である。それが深まると「今これをやらないと自分がどうにかなってしまいそうだ」ということ。そうしてすべての行動を結果論として帰納し、善悪の範疇に当てはめてみただけなのだ。しつこいが、ガンジーやマザー=テレサ、キング牧師等類まれな・そこいらの人間ではとてもまねできないレベルの偉人ですらきっとこれが根本。他人のためではない。釈尊やムハンマド、キリストも己が道を貫きたいからが根本である。自己満足とは「自分に忠実にあるために」動きたいと切望する欲望。だから、欲望を否定することは人間であることをやめなければならないことにつながると断言したい。 人間は今や60億以上も存在する。それだけ居ればそれだけの「自己満足のベクトル」が存在する。それが結果論としてどのくらい善悪なのか?それが大事なのだ。原始時代には結果論としての善悪は存在しなかっただろう。原始時代とは無秩序により近く、社会が限定的だっから。さすれば善悪の範疇も狭いものだろう。現代社会はそれに対し善悪の範疇も膨大で、それをコントロールするために法がある。さらに地球規模でつながっているために社会も膨大。このベクトルは暴走して他人の財産、生命を脅かすものであってはならない。それは自分がそうされたくないから。故にイェーリングは「法≠権利は自己の人格を含むすべてを守るもの」としていたのだろう。 善悪について細かく論議すること。それは複雑であってはならないのではないか?すべては人間である故に、人間はすべての行動に自己満足がもとになっている。やはり善悪についても「人間であること」から展開されるべきだろう。
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覚悟と人生の満足度
最も分かりやすく且つメジャーな表題は「お笑い」であろう。彼らこそ、夢・自分が後悔しない道を選んで生活力を犠牲にしたギャンブラー達だ。人生そのものがギャンブルになっている。明日の喰う生活も心配だったりもする。今売れている芸人達も、皆たどってきた極貧時代。友人や同級生がそれなりに落ち着いてフツーの幸せを持った頃、彼らはメジャーになりたいというか細い願望をもとに生き抜いている。
ギャンブルの魅力と人生の満足度を関連して考えてみた。ギャンブルは、大きいものほど破滅するリスクを背負う。其のリスクがあるからこそ、打ち勝ったときの快感は何にも代えられないものがある。こんな私のちっぽけな歌舞伎生活でも、滅茶苦茶連荘したときの快感は相当なものだ(好きな台であり、なによりも釘読み通り上手く行ったという読み通りに行ったという快感もあるが)。普通の人生に落ち着いて消えうせるのは、人生自体をギャンブルとして捉える心。刺激を追い求める心。張り合いと捉える人もいるだろう。 人間は、基本誰しもがギャンブルを好むはずなのだ。ただ、成長するにつれて現実・酸いも甘いもを知り落ち着いていく。リスクの前に萎縮してそれなりになっていく。普通の感覚はリスクを回避して生きるほうがいいと言うだろう。ギャンブルが嫌いな人は、ギャンブルの狂気に呑まれた人間の危険なイメージしかないからそうなるのだ。何で競馬やバカラにそんなにつぎ込むの?ほとんどすっちゃうのに?それは、彼らはお金以上に脳内の興奮を。何にも代え難い・ある種性行為より気持ちイイ瞬間を味わいたいからそれらに走るのだ。ギャンブル依存症はいけないが、私はギャンブル自体を悪と思わないし思ったら終わりだと思っている。そう思ったら人生そのものを否定することになるから。 先ほども言ったとおりお笑い芸人は、私が知る中で最大の合法ギャンブラーである。彼らは「例え明日死んでも悔いないよう」生きている。リスクはでっかい。夢破れて脱落するものがほとんどと分かっている。それでも自分が納得するまでやりきらないと後悔する。やらずに後悔するよりやって後悔するほうがいい。経験が無駄になることはないから。もし成功すれば人生の満足度は計り知れない。そして自分達もそれを掴み取りたい。そのため彼らは覚悟を持って懸命に生きている。 賭博を規制する現行法は、やっぱりおかしいのではないか?賭博を否定することは人生そのものを否定することに等しいのだから、スジが通らないとさえ思うのだが・・・・・・・。
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我が我であるために〜其の弐〜
我が我であるために。
どんなに他人に煙たがられようと、生き方にけちをつけられるべきではない。 違法・道徳的に問題がなければいいじゃないか。 普通に働いていなくても、独り立ちできる生活資金を稼いでいればいいじゃないか。 普通の人生って何なのか? そんなことで一ヶ月も鬱になっていた自分がバカらしい。 私が今一番自分に欠かせぬものを感じたとき。 それはパチンコ。 もしものことがあれば、これに生死を賭ける覚悟もある。 一時期スロニートをしていたころは、そこまでのものはなかった。 普通に生活しなければ一生が台無し。 そう思っていた時期だったから。 それで落ち着くべきだと思っていたから。 ただ、それは自分にとって本当に正しいのか? それを3年越しで痛感することになった。 人間はいつ死ぬか分からない。 人生平均80年。 長いからそれなりに普通に稼がないとあとが大変。 普通ならそうして勤勉にやっていかねばならない。 ただ、それで何が残るのか? あとから後悔してもとり返せない。 たとえ明日死ぬかもしれなくても、後悔しない人生を。 だから、私は今すべての価値観を疑ってみたい。
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そもそもブログって何ぞや?
最近よく訪問するブログである。管理人さんが自分の苦悩から必至に脱却しようと懸命に書き連ねる様子がとれる、ちょっと勉強になる場所。そこでブログについてきになる内容が掲載されていたのでこんなことを考えた。そもそもブログってなんのために出てきたのだろうか?
今でこそここまでブログが確立した。日記形式で更新できることと、パソコンとネット環境があればどこでも書き込めるという手軽さがあったからだろう。タレントのほとんどがいまではブログを持っている。ただ、有名人になればなるほどブログの内容に深みがなくなっていくような気がする。有名人ゆえに仕方ないのだろうか?ブログとは元来違法性や良識的範囲から逸脱しない限り書くことは自由なはずだ。有名人になると其の範囲におさまっていても、下手な一言で炎上しかねないために薄い内容にならざるを得ないのだろう。 では、そんなブログに意味ってあるのだろうか?そんな内容しか書けなくなった時がきたら、私はこのブログをやめるだろう。まあそれは人生すべてに絶望したときだろう。楽しいことだけでなく、苦悩や欝であることとそれとの戦いも、その人の可能な限りを書き連ねるからこそそのブログには人間味がでる。深いブログにはその人の人間性がにじみ出る。そういうブログほど本当に価値があるものと思っている。 ま、私程度のへっぽこではまだまだですぜ。私はとにかくここでマニアックなことに踏み込んでもとにかく書きたいことしか書かない。有名になって書きたいことが書けなくなるくらいならひっそりとでも、理解してくれる人がいるならこうして書き続ける。勿論批判・反対意見もウェルカム!!!!!こうしてメアドもさらしているわけだし。 ブログである程度書けなかったら、どこでストレスをぶちまけるんだい?
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2008年07月28日(Mon)▲ページの先頭へ
下手に主力を狙うよりもおいしいか?
私が4日間歌舞伎三昧だったことはさっき書きました。他にも美味しそうな台がちらほらとあったりしました。それが何と主力コーナーではなく皆バラエティーコーナーでした。下手な主力・新台コーナーよりも、店によっては探せばお宝台にありつける可能性ありです。私が立ち回っていた店は京都時代もそんなところでした。ライバルも少ないのでちょっと寝坊しても心配せずにすみますし・・・・・・・。
甘デジを主力とするものとして、最近歌舞伎以外に海も打ってます。海は歌舞伎に比べてちょっと辛いですが、導入率や客つきからいって余りひどい釘にも出来ません。高換金のところでもイベントによっては十分日当を叩きだせる台があることとも分かりました。いまさら気付くなんて遅すぎですね。 今、プロと呼ばれる皆さんはどの機種で凌いでいるのでしょうか?やはり海や京楽は外せないんでしょうかね?そしてほとんどがミドルスペック中心でしょう。ただ、へたれパチンカーの私にはド嵌りにたえられない。歌舞伎ですら確率の八倍以上はまるんです。それを味わうともうミドルなんて打てません。しかも、現行の規制上スペックによる平均期待収支の差はないんです。ボーダーや期待収支が同じなら収支が安定する甘デジのほうがいいと思います。 4日間、久々にみっちり歌舞伎三昧やって改めて「ぱちんこっていいな」と思いました。大当たりがぽこぽこやってくるのはやはり楽しい。そして、まず回る台は嵌っても苦痛じゃない!!!!!!回せば勝てると分かっているからですね。 ![]() 右近さん、虹色剣でパワーアップ!!!! ![]() 剣フラ×3→赤黒子舞台逆回転+振り切り!!! 十八番だからめっちゃどきどきです。 が、親子獅子あっさり外れ・・・・・・・・ぐはっ
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かつてのホームにしばらくは行かなくてよいか?
洞爺湖サミットによる新装自粛が終わり、私の地元のホール状況もちょっと上向きになりました。よって先週の木曜から今日まで毎日歌舞伎やってました。バラエティーコーナーにたった一台ですが、急に回りがよくなってました。27玉なのにも関わらず、アタッカーの削りはほとんどない(大当たり中に普通に止め打ちの効果がある)!!!!!スルーも確変削り平均5%行くか行かないか位。ヘソは普通より若干開いているくらいなんですが、寄りが新装時に見かけるか見かけないか位に優秀だったので、平均21回以上回りました。一回の大当たり出玉で36〜7回は回せました。歌舞伎のトータル確率は31.4なので高換金も手伝って理論上かなりおいしい計算になります。現に今日までの4日間で8万以上勝てました(´Д`)-y~~~スパー
甘デジで勝てる店を探すのは、普通のミドルスペックで勝てる店を探すのよりしんどいです。かつて京都エリアにいたとき、43玉が多かったので換金ギャップを貯玉プレーで凌ぐことも普通にやりました。そこまでしなきゃいけませんでしたから。唯一安定して凌げる店は2,3軒でした。一番稼げる店は少し前にぼかし画像で紹介しましたので、分かる人には分かるかもなぁ・・・・・・・。今回は自分だけの秘密にしたいので画像も勘弁です。あそこまでおいしかったら釘をシメられるまで頑張って一稼ぎしたいんですよ。そのくらいおいしい台でした。期待日当で言えば12時間勝負で2万円〜2万5千円くらいと、たいしたことなさそうですが、甘デジでその位期待日当があればほとんどストレスを感じません。ド嵌りくらっても高換金なので難なくやり過ごせました。 7/24 9時間勝負 +12,000円 7/25 8時間勝負 +29,000円 7/26 10時間勝負 +6,000円 7/28 7時間勝負 +41,000円 歌舞伎剣の27玉ってこんなにガッツリ勝てるのね。勿論今回は座る前から「今ガッツリ行かなきゃ後悔する」って感じの台だったのでマジ気合入れました。ええ、3日目は400はまりや500はまりも喰らいました。43玉だったら途中であきらめてましたね。途中まで3万マイナスでしたから。 よし、明日も気合入れてぶん回そう。
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2008年07月27日(Sun)▲ページの先頭へ
すべてには誕生と消滅がある。これだけは疑えぬことである。
人間だけでなく、原子レベル含めすべてのものに「始まりと終わり」「誕生と消滅」がある。太陽など星にすら寿命がある。宇宙だって誕生があったのだから、いずれ消滅があるだろう。生命の有無にかかわらずすべてのものはこの理から脱却することはできない。そしてどれだけ疑おうともこれだけは疑えない絶対的なものである。
宇宙が存在している時点で、この表題はあらかじめ決められたことなのだろう。故に我々人間ごときが死を免れることはできない。きっとこれからも永遠に。故に人間は限られた寿命の中で、死というものを恐れながら必死に生き抜かねばならない。宇宙レベルでのこの絶対的事実を考えると、人間のはかなさが感じられよう。そして、今一度自分は本当に満足した人生を送っているのかを問い直したくなるはずだ。 寿命は人一倍長くても、味気ない人生だったらどうなのだろう?所謂フツーの生き方。型にはまった生き方でいいのだろうか?遅かれ早かれ誰しもがこれを思うはずだ。一度は悩むはずだ。私のようにちょっと前の鬱のときだったりもするだろうし、定年後になってから問い詰める人もいるだろう。 たとえ普通の人生ではなくとも、たとえ他人には理解されないものであっても、違法だったり他人に著しく危害を加える人生でなければいいじゃないか。たとえ明日死ぬことになったとしても公開しない人生を送って生きたい。私は鬱から立ち直ってそれを渇望する。がんばって考える癖をフル活用し、好きなように遊び、さまざまな出会いをもって自分の未熟な頭を鍛えたい。そのためにはいろいろ経験しなければならない。故に縛られない独身がいいのだ。普通じゃなくてもいい。充実していればいい。 これを読んでいるあなたは、本当に自分が満足した人生を送れていますか?
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現実を知るとなかなか悲惨?
キャバクラで働くということは、お金がたまりそうなイメージがありますが実際はどうなのでしょう?いろいろと調べたり、周囲の客を観察したりするうちに「実は貯金するのが難しい職業なのかも・・・・・・」と思えてきました。
ナンバークラスになると年収ベースは1000万突破も珍しくはないです。が、そこにいたるまでは修羅の道なり。売れなかったら、指名がとれなければ上から「首にするぞコノヤロー」な目で見られますし、給料もOLを下回ります。しかし、売れたら売れたで今度は出費がかさむようになるのです。え?なんでかって? まず、ナンバーに入るということは店の看板として扱われる故、ドレスも絶対に自腹になるのです。もちろん髪形・ネイル・アクセについても店から厳しく言われるようになります。関西大手のオスカー系とか、そゆとこうるさそうだなぁ・・・・・・・・。看板娘故に彼女たちの立ち振る舞い、身だしなみは店を判断される材料になりえますのでそれは当然のことかもしれません。で、嬢達の飲み会やご飯はナンバー等先輩もちになります。他にも、酒を飲む故にエステやジム等でスタイルを維持する必要も出てきます。おお、これだけでもなんかめちゃくちゃ出費がかさむやないかい(驚)。そして、めちゃ前に語った「夜の食銭連鎖」で嬢がもっとも出費をかさむ原因となりやすいホストクラブがあります。 ええ、上にのぼればのぼるほど、嬢はストレスを抱えるのです。嬢同士の派閥争いや変な客からのセクハラやストーカー等々・・・・・・・。故にキャバクラとは戦場なり。とまあちょっと知るだけで彼女達に対し我々は夢を抱くべきでないということがわかると思います。基本擬似恋愛の場なんですが、これを呼んでくださっているキャバラー諸君にはそれをしないでいただきたいなぁ。え?じゃあなんで私はキャバにいくのって?もちろん硬派を知るためと前に書いたとおりです。故に過去指名していたコは恋愛感情を抱く心配がまったくなさそうなコのみ。いつもここで何かとネタだしするY嬢は、彼氏さんについても面識あるので一番安心なパターン。お互い間違った方向に行かなくてすみますし(笑)。 上のことは、調べただけでなく、Y嬢から教えてもらった内容も含むのでかなり事実に近いと思います。もしキャバクラ未経験で、ちょっと行ってみたいと思う方はまず予備知識をある程度詰め込んでから行きましょう。 また、嬢の皆様のなかにはまれに「カワイイ女子のお客のほうがうれしい」ってお人もいてますので(例・一ノ瀬萌姐さん)、女の子が行ってみてもええんちゃうかと?歌舞伎町では、キャバクラのお客に女性が結構いるらしいとか?歌舞伎町の女王・一条葵さん等有名嬢といわれる方々には、女性が指名客として来店するケースもあると聞きました。売れる嬢って、やっぱり同姓から見ても魅力的なんですね。私が武装の漢達に惚れ込むのと同じ感情なんでしょうね。
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大都市圏と地方のキャバの違い
東京六本木・歌舞伎町や大阪ミナミ・キタ等の大都市圏(政令指定都市クラス)と地方都市のキャバクラの違いとは何ぞや?間違いなく料金とそれに見合った平均的満足度であります。やっぱり、大都市圏の夜の世界は競争率が激しいから手を抜く暇がありません。語弊がありますが、そうなるとやはり競争率が低くなりがちな地方は微妙なところが多かったりします。歌舞伎町やミナミだと「ああ、おそらくキャストさんなんだろうね」って感じのコが夕方には見かけるようになります。彼女達御用達の美容院も多いし、そこで巻き髪を一生懸命やってる光景も日常茶飯事です。
地方のキャバでは、そこまで巻き髪を見たことないよな・・・・・・・。そういえば、巻き髪ってなんでキャバクラの基本なんでしょうか?てなわけでだいぶ前にY嬢に質問してみたわけですが、ゴージャスに見せること以外は何で?と首を傾げてはったみたいでした。てか、そんなことをまぢめに調べようとする奴もなかなかいないか・・・・・・・・。どうでもいいといえばどうでもいいことですしね。同じような理由でホストの髪型の定番はどうしてメッシュが入った長髪?ようわかりませんわ。 恐らく、大都市圏でしかキャバクラに行かない人は地方の店の雰囲気をキャバクラと捉えないでしょうし、逆もそうでしょう。ただ、一つだけいえることは両方を知ると間違いなく大都市圏のレベルの高さが分かるということです。そして、大都市圏のほうが嬢も頑張れば稼げるようですが・・・・・・・・、出費も同じことが言えるんですよね。大都市圏であるほど、我々の福沢諭吉さんが毎晩彼女達のために飛んで行きます。そして彼女達の福沢さんも飛んでいきます。大都市圏ではホストクラブが・・・・・・。ブランドショップが・・・・・・。美容院やネイルが・・・・・・・。そういうところが多いので、嬢の懐事情には格差がないのかも? 今回なんかぐだぐだですいません・・・・・・・・。
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2008年07月24日(Thu)▲ページの先頭へ
いつでも堂々としていたい
人間同士つきあっていくためには、妥協したり折れたりしなければならないときがある。私が基本人間嫌いだったというのはそれができないから。自分の意見を通したい我の強いにんげんであると、その傾向に陥りやすい。俗に言う頑固親父タイプである。人間関係でそれなりに上手くやっていくには、最初はでしゃばらずにとにかく受け答え型でいったほうがよいらしい。
でも、余りにもスジが通らない話をされていたらどうなんだろう?普通なら受け流せるレベルだったとしても、私にはできないだろう。嫌悪感でつい口を挟んでしまうだろう。理想論としては義とスジを大事にしていきたくても、それは現実ではほとんどまかり通せない。だからこそ人間嫌いになったりした。人生・社会生活というものは退屈と苦痛でしかないと考えた。 そして、堂々としすぎても時には社会不適合者のレッテルを貼られることもある。でも、堂々と出来ないくらいならそれで結構。社会不適合万歳。他人に迷惑をかけなければ、それでいいじゃないか。誠実ささえあれば。 楽しくない生活なら、切り捨てよう。たとえそこそこ以上稼いでいても、自分の心が苦痛なら意味がないのだから・・・・・・・。
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2008年07月22日(Tue)▲ページの先頭へ
我々が眼でつかむ範囲の狭さ
我々人間は両目が顔の前面についている。このことから分かるように、人間とは視覚に重きを置く生物である。美醜という観念があるよう、人間だからこそ理性と視覚を絡めあわせ、美術というものが生まれた。しかし、我々はほんとうに視覚からの情報のみを信じてよいのだろうか?
人は見た目で判断されやすい。服装や立ち振る舞いでひとくくりにされるのはよくあること。例えばお兄系やギャル系は遊び人でふらふらしているというイメージがあるし、私のようなどこにも属さない「変わり者系」の服装は自分の思うがままに行動する人と判断されやすい。ただ、外見だけで判断するのは危険だよなということを最近自覚してきた。 基本、私は服装や外見でなるべく第一印象を決め付けないようにしている。流石に言葉遣いや挨拶をろくにしないならば斬り捨てるかも・・・・・・・。まあ、外見から言ったら私も滅茶苦茶遊び人だしな。ただ、見た目を全く重視しない人はありえない。外見をきっちりしない人は中身もだらしないし相手に対しての気遣いがない人が多い。それは語るまでもないだろう。一緒に歩いていてこっちが恥ずかしくなる相手だとどうよ?アメ村で服やアクセを探しに来て、よれよれシャツで髪ぼさぼさでっていう奴と一緒に歩きたいか?女の子なら化粧もろくにせず女を棄てたような格好の奴と一緒に歩きたいか?とにかく同性としても眼を背けたくなるような格好をして平気で出かける奴はありえない。本当にそういう奴の中身はだらしない奴がほとんどだから。 判断を軽くすることは危険と言った訳だが、経験上これだけはまかり通ると言いたい。服装にだらしない奴というのは、人間関係についても同じことが言える。別にきっちり決めてアクセや髪やなんやらと気合を入れろといっているのではない。靴がめちゃめちゃ汚かったり、洗濯してたたんでないのがまるわかりのよれよれ、くしゃくしゃの上着の奴はありえないね・・・・・・・。それだけで生活リズムがなんとなくわかる。部屋もやばそうだしな。そういう奴らに「義と考える癖」について話そうとしても徒労に終わるケースは多かった。 あと、一見お兄系やギャル系のように遊んでそうなイメージの子ほど第一印象で判断するのは危険である場合がほとんどだった。あとは夜の街・夜の住人ほど外見と中身の絡めあわせた人格判断が難しいのは言うまでもない。故に、我々は他人に対しての人間性の判断については常に理性をフル回転させて臨まねばならないのだ。
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2008年07月21日(Mon)▲ページの先頭へ
心の渇きとは、きっと誰しもが味わうものだ
欝なときにとことん突き詰めた「心の乾き・欲望の中の欲望」。それが欲望そのもの・欲望のイデアと定義している。人生とは、それを求めるために展開させるものといってもいいのかな?それがすべてではないかもしれないが、理性・考える癖を持った人間である以上その立場は放棄すべきではないだろう。
私のように書物や考察からこれを考えなくても、フツーの人生の日常生活でもきっとあるはず。ふと毎日の生活について振り返ったときがそう。毎日同じ生活の繰り返し。これでいいのかなって振り返るとき。それは自分の心が真に満たされないとき。心の乾き・欲望のイデアが満たされていないことを実感する瞬間。ただフツーの生活を受け入れている限りそれがそうであることを実感できない。 欲望のイデアがおぼろげにでもつかめてくると、フツーの幸せを送る人生そのものに価値が見出せなくなる。99%の人間の人生を客観的に見てそれと違う道を選ぶことになる。それが昨日会ったお兄さんであり、波乱万丈ながらも刺激ある人生になる。フツーの生活を送る限りその1%の人間の人生は分からない。傍目からは不安定で、人によっては危険な人生と感じられよう。でも、そういう人たちは自分に嘘をつかないし人間的にも豊かな人が多い。私も今間違いなくそっちの方向にベクトルを向けている。 熟年離婚は、歳をとって欲望のイデアをつかみ始めたから増えたんだろうか?定年でやっと自分の人生を振り返る時間が持てるようになる。それをそのときにふと感じる人が多いらしい。何十年も家庭と仕事場の往復。自分の生活について省みる時間がなかったから今まで感じたこともなかったそれ。でも、いまさら振り返ったところでなんになるんだろう?歳をとるとそう考えてしまうらしい。だから、私は今から自分に後悔しない生き方を選んでいく。心の乾きから目を背けたくないから。 たとえ硬派を目指していなくても、私は間違いなく結婚できないししないだろう。それは1%の人間の人生へと進んでいくから。何かを得るためには何かを棄てなければならない。ならば「真に心が満たされる道」を選ぶ。他人がどれだけ訝しがろうとも、今選ばねば歳をとってから後悔する。歳をとってからはだんだん無茶ができなくなるから。
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呑んだ暮れの連休期間
ああ、京都に住んでたパチプー時代並に堕落した3日間でした。
昨日は大学の同窓会、一昨日は合コンととにかく酒びたりでした。ということで今日は必至に腹筋腹筋!!!!!!!弟にダンベルで叩いてもらったりもしました。数日サボっていたのでその分頑張らないといけません。肉体は鍛錬をサボるとホントにやばいですから。 まあ、そんなことはどうでもいいです。昨日の同窓会で5年ぶりくらいに会った面々ばかりでした。我々今年27。この歳になると、結婚していたり子供がいたりとそれなりにみんな「落ち着く」年代となります。ああ、フツーの幸せってぇものはこういうものなんだな・・・・・・・としみじみと感じたりしてました。フツーの人生から敢えて背を向けようとする自分にはないなにかが彼ら・彼女らにはありました。15人も集まったから、大学時代の同窓会としては十分だよな・・・・・・・。15人居れば15通りの人生がある。みんな、幸せになってくれよ!!!!!! 同総会後には、大学時代の後輩が経営しているカレー屋さんにいきました。真友ネーサンを送っていく途中でちょっと寄っていくはずが・・・・・・なんかいろんな人に囲まれ盛り上がりました。私が武装戦線ポロシャツを着ていったためか、ある男らしいお兄さんと人生論や武装戦線論を語ったりという妄想爆発も・・・・・・。あと、喜ばしいことにその真友が来年結婚でっす(。-`ω´-)ンー。まぢおめでとう!!!!で、後輩からもネーサンのためにプレゼント贈呈!!!!!しまいには他のお客さんからも拍手喝采!!!!人間ってまだまだすてたものじゃないと実感です。 お兄さんとも人生トークかまして、その方は29にして自分よりももっともっと「我が道を後悔しないようまっすぐ生きる」ことを貫いていました。まわりはこうして結婚し家庭を持つ。それは99%がたどるフツーの幸せの道。勿論ネーサンには真友として心からの祝福を。何があっても俺はダチの味方さ。ただ、我々のように自分を悟った上で敢えて自分に嘘をつかない一般と違う生き方を模索する道もあるんです。お兄さんの波乱万丈人生を聞いて私も立ち止まって入られないと気合はいりました。 武装の漢たちのように、硬派にまっすぐに生きたい!!!!鬱になっていま目指す目標として来年覚悟を持ってパチ専業者になる準備をします。住むところについても、色々と探していたりもします。とりあえず2年やってみる方向で。来年2月あたりにはある程度の貯金が出来る予定。で、本格的にかつてのホームでパチンコに向き合います。今も一ヶ月に2、3回ホーム周辺を下見します。喰える地域であるままかの調査。今のところは普通にバイトするより断然割がいい感じです。たとえ明日しぬことになろうとも後悔しない人生を・・・・・・・・・。日々心が死ぬよりも不安定でも心が生きている人生こそがいい人生ではないでしょうか!!!!!
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2008年07月19日(Sat)▲ページの先頭へ
今一度読み返した「人間とは何か」
人間を悲観する視点で書き進めたこの書物。マーク・トウェイン著のこの本は私の一生の愛読書の一つでもある。読書は好きで、哲学書関係からくだらない雑学書、オカルト書まで色々読むが、中には一年〜数年に一度の割合で「この本は一生の愛読書にしよう」と思える本が出てくるのだ。今までこれはと感じた本は、これ以外にジョン・デューイ著「学校と社会」、マクス・ヴェーバー「職業としての学問」。これらは今でもたまに読み返す。それらの中でもこの本は特に影響を受けた。
内容としては「悲観的に人間を、すべての行動原理は自己中心の欲望でありそれに忠実に従って生きることが人間の本性」というもの。これを色々な例題をもとに、老人と青年がひたすら語るというものだ。特に、ある男が大雪の中で乞食並にみすぼらしい老女に25セントをあげた話とその解説が印象的だった。 青年は男の行為を「私利私欲なき純粋行為」と言った。それに対し老人の見解は「根本は自分自身の安心、心の慰め」と言い切った。青年は彼の行為に対し「苦難にやつれた老婆の姿をみると彼の心はたまらない苦痛を覚え、見るに耐えなかったから」と語る。そしてもしほうって死なせたことを想像すると彼の良心はいたたまれなくなったという考えだ。それに対し老人は「そのやりきれない思いというのは男自身の苦痛であり、まずそれを男は感じた。この苦痛を取り除くには老婆を助けなければならなかった」という見解。苦痛を和らげるクスリを25セントで買ったようなものと言い切っていた。故に人間はまず第一に「自分自身の満足・心の平定」を満たすために行動し、他人のためにとはその行動と並行しているに過ぎないという結論がでる。愛についてもトゥエインは登場人物の老人にこう語らせている。「対象が幸福になれば、自分も幸福になれる」と。 この本は、私の人生のありかた、方向性に最も影響を与えた本であるといっても過言ではない。義に生きることを決めた根本も、ここにあろう。故に、自分に正直に生きることが大切なのだ。本当の善人はみな「自分のために、自分の誇りのために」という気持ちで善いことをするのだろう。自分が満たされなければ絶対に続かないのがボランティア。ボランティアの根本もこの本が示してくれていると思っている。
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恐らく今後私の人生の方向とはこうなるだろう
普通の人生というものについて、私は真っ向から否定する。普通に生きることはなんて馬鹿馬鹿しくむなしいのだろうか?そう思えてならないから。
一昔前なら、仕事を頑張って家庭をもって、定年まで頑張ってとにかく働く。それでよかったのかもしれない。黙って真面目に働きさえすればとりあえず給料は上がる。定年まで保障万々歳。ただ、定年後にとたんにむなしくなっていたのではないか?一体自分は何のために今まで生きてきたのだろうかと。 それが今では非常にナンセンスな生き方のひとつとされよう。今時真面目に働きさえすればいい会社なんてひとつもなかろう。終身雇用なんてもはや死語。こんな時代に自分を犠牲にしてなんになるのか。保障・安定という傘に守られるかわりにフツーの社会人として黙々と生きる。かつての会社人とはそういうものだった。そして自分を犠牲にしていた。今そんなことをしたら間違いなくむなしくなるだろう。自分を犠牲にして真面目に働いても給料があがるわけでもなく(というか能力なければ首きられることも?)、仕事と自宅の往復。それを延々と、老いるまで繰り返す。家族を持てば家庭・仕事・また家庭・・・・・・・の繰り返し。たとえ鬱になっても家庭を持てば引くわけに行かない。家族の生活を守るために自分を犠牲にする。それが責任であり社会人のフツーの姿と言ってしまえばそうかもしれないが、充実した人生とは程遠いだろう。 自殺者が多くなるのも、欝な人間が多くなるのも、そういうところからきているのかもしれない。自分を殺して働いて、サービス残業含めてさらに自分の時間を失って・・・・・・。馬鹿馬鹿しくなる。さらに、私のようにフツーに生きることが出来ない人間には会社での人間関係がさらに鬱になるものだろう。 私はフツーの人生を送る気はない。下手したら来年には本腰入れてパチンカー生活を送るかもしれない。朝から晩までパチンコと向き合うのは実はつらい。朝早く店に行って夜遅くまで稼動。ハンドルをずっと持っていて右手首が痛くなったりもする。流石にパチンカー生活で一生を過ごすことは難しい。ただ、私には今お金をためるために手っ取り早く且つ自分と向き合うことがパチンコなのだ。まあ、場合によってはこの道に殉じる方向に至るかもしれない。事実今連休になるとかつてのホーム地域に遠出して物件もちょこちょこ探している。こっちでは全く喰えないからである。不安定でいつ店が締め出すかという不安も尽きない。ただ、今時安定と言う稼業はない。それを悟ったらパチンコと向き合うのもありだろう。パチンコは釘と己の辛抱・努力さえあれば長い眼では決して裏切らない。世間一般の人間と違い努力した分はちゃんと裏切らず帰ってくる。フツーの人生のむなしさを知った今だからこそ、パチンコ専業の道に入るとしたら覚悟を持って挑めるだろう。 人生はただだらだらと長く生きればいいってものじゃない。自分に対し正直に、生きたい方向性で生きて充実するほうこそいいのではないか?
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皇帝vsティム・シルビア
PRIDEヘビー級絶対王者・ロシアンラストエンペラーことエメリヤーエンコ=ヒョードルが、7/19始動の新イベントで対戦します。その興行元「アフリクション」はアパレルメーカーであり、ファイター御用達のそれであります。ちょっと検索してみると、皇帝は勿論、GSPことサンピエールやランディーおじさん、この前タイトルマッチで負けちゃいましたがランペイジも、このメーカーの上着を着て宣伝?しています。ハリウッドスターもアフリクションの広告塔になっているみたいです。
正式な各階級のランキングも決める大会にしたいようで、この一戦が世界ヘビー級王者決定戦と位置づけられるみたいです。まあ、ボクシングもランキング方式があるから発展していきました。UFCの一人勝ちしている状態で、そこに割ってはいるならばそうしたものを設定するのは一つの手なのかもしれません。 旗揚げ戦の時点で、なんか格闘貝ではメジャーな顔ぶれがイッパイなんですけど・・・・・・・。是非日本でも放送してほしい。つうか皇帝の試合は生中継希望!!!!!皇帝はミルコを唸らせたほど打撃もいいので、シルビアがどうやって皇帝攻略をしていくのか?そこは結構見所かもしれません。ただ、シルビアはちょっとグラウンドに穴があるので如何にそこを打撃戦でカバーしていくかという戦略なんですかね?
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2008年07月18日(Fri)▲ページの先頭へ
ああ・・・・・行きたいが無理だぁ
二十日は同窓会。で、萌姐さんが横浜の雀荘「シルバー」での麻雀大会ゲスト来訪・・・・・・。行きたいのだが嗚呼無理。もしかしたら行けるかも?と頑張って行く方向でハードにタイムテーブルを作ろうとしたわけですが・・・・・・・やべえ寝る時間なくなるやん。つうか寝る時間あってもワシの住んでいるところと横浜って新幹線を使って頑張っても同窓会に間に合わへんやないか(泣)。
ハードタイムテーブルを作って何とか30分だけでもチョイ顔出して・・・・・のつもりでしたが、無理なことが判明したので泣く泣く今回はスルーっす。チクショー!!!!!!!
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人間とはどういうものか、そしてどういう存在であるべきか
人間らしい生き方は、常に考えることを怠らないこと・義を忘れないこと。これは今までずっと語っている。義で生きることは、最も単純にいうとただ本音で生きることに尽きる。ただこれは簡単なようで難しい。それは、現代社会が嘘偽りが飛び交うものだから。特に、大人になるにつれそれを実感していくもの。社会人であれば誰しもが「義で生きたくても通用しない状況」があることを悟ってしまう。それは特に自分が働く職場だったりしないだろうか?
去年からずっと食品偽装等とにかく嘘偽りの末のあきれるニュースが続いている。嘘偽りの世界。これが人間社会なのであり、それを作ってきた人間はすべてそれに浸からざるを得ない。なんとなく過ごしてしまうと、そうするつもりはなくても自分も嘘偽りで過ごしてしまう。ん?現代社会とはただなんとなく生きているだけでも嘘偽りなのか?それを気にしないということ自体がそういうことなのか? 本当に自分はこの生活でいいのか?自分はこれで本当に幸せなのか?なんとなく過ごしていたらただ時間を浪費するだけ。もったいないし、死ぬまで「人間のあるべき道」を分からぬまま過ごしてしまうだろう。何も考えず、何も疑問を持たず、嘘偽りで交流したまま・・・・・・・。そんな人間ばかりだから、「義で生きること」を本気で語ろうとすると軽くあしらわれるのか・・・・・・・。 先に善行と天国・地獄について書いた。これらを結び付けて考えること自体が浅ましいと語った。何も考えてなければ、これらをちょっとアツく語られるだけでただ「地獄に行きたくない」と思うだけで終わる。考える癖を怠らぬなら、まず疑問を持つべきだ。これらをすぐ語る人間はたいてい浅ましい。「悪いことしたら地獄行き」というのなら、嘘偽りの社会で生きる我々は皆地獄行き決定になってしまうのだよ。すべて本音で生きようとすると阻害される・下手したら会社を首になるよなぁ。さらには社会不適合者として扱われてしまったりもする。そんな社会では生活のために皆と同じように嘘偽りで自分も塗り固めなければならない。私のように、それに納得できなくなった人間は普通の会社で働くことなどできないだろう。 人間は嘘偽りで固められた世界で生きる。そしてそれを形作る人間もそう。でもそれに流されてしまったら、死ぬまで本当の幸せについては分からないだろう。本音で生きる・義を貫くことこそ人間の務め。そしてよく考え自分を持つこと。更には義をもって自分に関わるものすべての者の幸せを願うこと。その際大きくスジが通らないことに関しては納得すべきではない。これが人間としてやらねばならぬことではなかろうか。
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2008年07月17日(Thu)▲ページの先頭へ
人はなぜ誠実に生きなければならないのか
簡単に言えば、「自分が義に生きる」ためと言い切ってしまえば終わり。ただ、それをいくら掘り下げて説明しても理解しようとしない輩が多い。善行を怠ってならない理由を宗教観で「地獄に落ちたら死んでからも不幸だよ」とか「天国や極楽でまったりしたいでしょ」とかのたまっているが、それは違うだろ?天国や地獄なんてどうでもいい。そんなことに囚われていること自体が浅ましく醜い。もっと大事な根本があるだろ?何で人のために生きなければならないのか?それは誠実に生きることであり、それは義に生きることに他ならないからだ。
まあ、よく調べればそれら宗教関係の書物にも同じように「義に生きること」が根本であると書いてあるかもしれない。ただ、それを布教するときに「天国と地獄」論であおろうとすること自体が許せない。それは宗教を利用して人々をかえって不安にさせているだけだ。宗教の力を借りずとも、善行の根本については気付けるはずだ。人間は弱く時に醜い。だからこそ義なのだ。 義のため、誠実に生きることは自然と「困っているものを放ってはならぬ。自分にスジを通せなくなるから」ということをも感じるようになる。そりゃあ、自分が死ぬリスクを背負って電車ホームに落っこちた人を助ける(電車接近中)ってレベルはなかなかできないさ。私はまだそこまで出来ないなあ・・・・・・・。普段から宗教を語るやつでもさてできるのかい?宗教を語る奴なら私程度の人間なんかより真っ先にそういうことが出来るはず・・・・・・。それが出来なければそいつは偽善者。宗教を心のそこでどこか利用している道具扱いしているだけの奴となる。 ガンジーやマザーテレサが偉人の中の偉人と今でも言われる所以は宗教的なものでものなく、「義」ではなかろうか。以前も言ったけど。それは「己が信念を通すため」という自分に誠実であろうとしたこと。自分のためにやることは、結果他人のためになればいい。そういうように行うのが善行だと思う。下手に他人のためにとか偽善的なことをのたまうからこそ善行はしんどいという偏見ができてしまうのだ。自分が恥だらけの人間になりたくないから。それでいいではないか。 誠実に生きるのは、人間の義務であるはず。義を少しでも理解しない人間に価値はない。そりゃあ、生活があるから仕事上で不義理なことでまみれなければならないときはしょっちゅう。現実問題それは理想論でしかないから無理と片付けられてしまうだろう。それなれば私は普通の会社で生きることは無理だろう。いまさらそれを悟った。それを無理に普通の社会に溶け込もうとしたからこそやさぐれたり鬱になったりしたのだろう。相次ぐ食品偽装事件を見れば分かるではないか。企業とはほとんどがどっかで不正をしている。ばれていないだけ。公表しようとしても生活が出来なくなる不安を恐れてうやむやになる。それが納得できずドロップアウトする自分のような人間は、世間から社会不適合とレッテルを貼られる。まあいいよ、義を通せなくなってストレスが溜まるくらいならそんな社会は真っ平御免だ。多分、私は世間一般でいう普通の生き方はできまい。嘘偽り・裏切りと黒いモノだらけの世の中では私の理想論は通用しないと斬り捨てられるから。実際ほとんどそうであり私が理想を・義を通そうとしてしょっちゅう苦汁を舐めるはめになるのだから。 1ヶ月近く欝だったのもそれが原因。義を通せない人間しか居ない環境ならば、それを放棄すればよい。説得しても、義は己自身の体験からしか実感できない。私はこの1,2年で色々な人間に「義とスジ、義と男女関係」等について説明していったが、理解を示してくれる人間は1割くらいだった。ほとんど友人だけか・・・・・・・。あ、もちろん我が姉貴分も義をお持ち。まあいいさ。よぼよぼになって気付いても遅いんだぜ。うん、矛盾しているけど1割でも義を持つ人間を捜し当てられるなら、「義に生きること」を説得していくさ。 歳をとってからの顔は、その人の生き様が出よう。美醜ではなく心のありようがそのまま浮き出てくる。いつも明るく前向きな人間はそういう表情で歳をとるし、いつも真剣に妥協しない人生を送る人間は厳しく真面目な顔つきで歳をとる。いつも他人に対し不平不満をぶちまけたりしている人間はそういう顔つきで歳をとる。顔は心のカガミとはよくいったものだ。美醜よりもそういう表情ってやつのほうが大事だな。誠実に生きればきっとそういう顔つきになるのだろう。
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2008年07月16日(Wed)▲ページの先頭へ
私とは違う立場でも
私の真友の一人で、現在東京で声優をめざし、劇団やその他活動に人生を賭けている奴がいる。また彼も私と考えるやり方は違えど同じ「人生とは何か」を追い求めている。昨日たまたまメールが来た。我が鬱状態とナイスタイミング。
私は宗教すべてと関わらない生活を信念とし(自身の葬式も宗教的枠組みを取り入れたくない)ているのに対し、彼は真面目に創価学会の活動を行っている。一見全く正反対の方向で人生を模索しているのだが「義とスジについて」は共通の意見を持っている。人間はこれをなくしたら人間ではなくなる。その思いは一致している。私は基本、自分は宗教的なものよりも実際に根本解決への道筋を探し、それを実行することをまずやるべきという合理主義者。過去の裏世界の入り口に突っ込んでいたときの経験からそれを悟った。人間だからこそ神や仏という絶対的なものを想像したに過ぎない。これらに祈っても借金がなくなるわけでもないし・・・・・・。って考え方。 ただ、それを必要とする人間が真面目にやって人生を模索するのは賛成。その人が人間的に成長するものであれば、やってしかるべき。昨日彼との久々の長電話で、我が方向性は間違っていないと改めて確信できた。私はどんなに馬鹿にされても、精神的に鬱になっても「義」を棄ててはならない。硬派を目指すためだけでなく、人間らしくあるためにこれは必要なのだから。 自画自賛的なことを言ってしまうかもしれないが、一人で考えそこにたどり着く人間はなかなか居ないって彼に言われた。いやいや、俺はまだまだひよっこです。ようやく人生26、7年で「義」にたどり着いた程度。まだまだ自分を高めなければならないし、彼に負けていられない。彼が成長しているのを電話でも感じ取れ、私も自分の主義を貫き通し高めなければと刺激になった。 ああ、こういう真友がいると「鬱になってる場合じゃねえ」と立ち上がるきっかけになる。私はこのまま漢の道を、硬派を、生涯独身と義を貫く人生を頑張ろう。
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すべては人間として理性を持った時から始まったA
心が満たされない理由だけでなくすべての学問や観念の元は「人間であることそのもの」である。それは人間が知能を持ち発達させたことなのだ。人間でなければ悩みもだえることもないしその概念すら存在しない。故に人間であること自体が苦悩のもとである。ここまでは前回のまとめ。「人間であること」はそれだけでなく、すべてがそうであると言いたい。キリスト教も仏教も、イスラム教も・・・・・宗教皆これだからこそ生まれ得たものである。創始者達も人間だからこそ、これを創始するという偉業を達成した。
これはあくまでも客観的にすべての根源を考えただけで、人間様万歳という人間至上主義ではない。人間は完璧ではないし、またそうなれないだろう。それは人間がそうあるように存在しているからとしか言いようがない。他に理由なんて探せない。初めから完璧ならばそれ以上の成長はありえないし存在しない。完璧とはそこで終わってしまうものであるから。だから、どこまでいっても人間は完璧ではないし何百年、何千年とたってもそうなれない。 完璧でないからこそ、人間は面白いのかもしれない。完璧にはなれないけれど、だからこそ目標に限りはないしクリアしていく喜びを死ぬまで感じれる可能性がある。人生の面白さって「人間であること。そして絶対完璧になれぬ人間そのもの」なんだろうな。目標がない・限度がない・わからない労働は勤労意欲を削るだけという。ただ、人生には目標の限度がないほうがいい。あったらそこで人生の楽しみ方を失いそうだから・・・・・・・・。
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2008年07月15日(Tue)▲ページの先頭へ
すべては人間として理性を持ったときから始まった@
ふと、心が満たされない本当の理由はここにあるのではないかと浮かんだ。我々は何故こんなにも欲深く、何故欲望を満たしても満たしても満足に行き着かないのか?そして更には「真に満たされるもの」「心の乾き・渇望」「欲望のイデア」を想定し捜し求める。
其の根本はどこにあるのか?そんな視点で考えてみた。そう、それは至極単純なことだった。 「人間であることが心の渇きの原点。人間として自分が居ることこそがすべての始まりなのだ。古代ヒトから人間へと進化する過程で、我々は知能→理性を得た。そして文明を形作り、それは同時に欲望のビッグバンの過程でもあった。我々は何かを達成していくたびに新たな望みを宿し時代とともにそれらを実現させていった。そしてそれをなされていくごとに我々人間の心の渇きも大きくなっていったのではないか?」 知能→理性をもったからこそ、我々は欲望を大きくしていった。文明が発達することは、人間が古来持っていた欲望・願望を達成していった軌跡なのだ。そして欲望・願望とは満たされていくたびに「人間として、真に心が満たされるもの」を想定していくもの。文明が発達していくたびに、人間は心の乾きも大きくなっていった。そう思えてならない。 欲望だけじゃない。善悪も、倫理も哲学もすべて、2足歩行と知能を備る用になった頃からの人間が確立され進化していったからこそ生まれたもの。ということは、我々は知能がなかったら欲望について最低限生きるためのこと以外は思いつかないし、思いつく必要がない。知能がないから悩むことはない。そもそも悩むということすらわからないのだろう。 人間だから、欲望は深く、それは時にあさましくもなる。それ故に心の乾きも大きくなり苦悩・絶望につながるのだ。バカであることは、そういう意味からは幸せなのかもしれない。 それだけでは、まだ私が鬱になるまで落ち込んだ理由にはならない。「人間とは醜くどす黒い心しかない」と黒い私がひたすら我が脳をを説得しようとしていた。人間は醜い、そして自分も人間であることすら許せない。そこまでいっていた。おそらく、人間自身についての定義にたどり着かないまたは分からないと、犯罪に逃避したくなってしまうのだろうか。それこそ苦悩の末の行動であり、人間だからこそそんなことに至ったのである。 人間は、人間だからこそ道をさまようのである。これは人間であるゆえの宿命としか言いようがないのだろう。
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2008年07月14日(Mon)▲ページの先頭へ
椿姫彩菜とは
最近、「己が信念・己が生き様を通すために」というものを感じた人である。小悪魔agehaっていうギャル系雑誌の専属モデル。男の子として生まれ、男子校出身であることを明かした自叙伝で知っている人も多いかな?勇気を持って性転換手術に臨んだという一例。性同一障害ってえものがほんまにあるんやなと感じたことでもあった。
私の心は男でも、体は女で生まれてきた。または其の逆だったりとか。そしていくら自分の体の現実と向き合おうとしても心を否定できない。自分の心に嘘をつくことは自分を否定することになり生涯の苦悩につながる。そういうのが性同一障害と聞いた。私にもニューハーフだったり、同性愛者だったりする知り合いもいる。そういう人たちから話を聞くと、漢を磨くものとして彼等、彼女らの視点は勉強になる。また、この問題は社会学的観点から考えねばならない。ジェンダー論とセックス論である。今まで口すっぱく説明してきたので、これらの性別論については割愛。 椿姫さんも、長年性同一障害に苦しんでこられたのだろう。手術によって心も体も性別を一致させることが出来るようになったとはいえ、そこでも悩んだだろう。失敗するリスクも大きいし、両親からは反対されるだろうし・・・・・・。親からもらった体にメスをいれ、しかも性別まで変わっちゃうのだから・・・・・・・。 それでも、「己が信念と通すために」というスジを通すために踏み切ったのだ。そんな彼女の勇気に触れて、改めて人間修行に励まねばならぬという刺激になった。漢修行をするにあたり、ジェンダー論とセックス論の勉強は避けられない。そして男とは何か?女とはなにか?から考察が始まる。恋愛と性交についても真面目に考えねばならない。あなたが気軽にしている何気ない下ネタも、ところどころ分析し考察すると社会学的な深い意味が取れる場合が多々ある。 性別とは、簡単に言葉では括れない複雑さと難解さがあるだろう。
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人の絆を真の意味で深めるのは、やっぱり義しかないんだ!!!!!
普通はみんな、「愛」と言うのだろうけど、しつこく私は「義」だと主張する。私がなぜそういうスタンスを取るのかは、過去の記事にあるので読んでくれ。質問はそれから受け付けようではないか。
改めて、「義で生きる人生に挑戦していてよかった」と感じたこと。それは最近ここでもよく取上げる一ノ瀬萌姐さんとなんやかんやでメールのやりとりをするようになったこと。一ヶ月前に、しかも一度お会いしただけなのにこんな未熟な人間と真面目に向き合ってくださっていることだけでも感謝しきれないことだが、結構真剣なことをメールとはいえ相談される。勿論、舎弟であるが故私は真面目に+緊張しつつ返答をする。多分、今後私から姐さんに「人間って何?もうあっしのちっぽけな頭じゃ解決できやせん」っていうような助けてメールを送ることもあるかもしれない。ブログ上だけじゃなく、直接御本人を知ってまだ一ヶ月だよな?これって私が不細工なやりかたでも、とにかく嘘偽りない自分を姐さんにぶつけたことから?「義」でつきあっていきたいと切望し、そのまま向き合ってみた結果?そして姐さんだったからこんな私でも精一杯の「義」を返してくれている。最初は「ブログ上のキャラではなく真面目に硬派目指してます」「まぢで巨乳や美乳よりヴァンダレイの分厚い腹筋と胸板と背中命のド変態野郎」ってことを素で大真面目に語る濃い奴に引くか?と不安だったわけだ。しょっぱなからそんな突っ走り路線全快でいくと初対面の奴らにはほぼ引かれたから。だが、姐さんに直接お会いしてちょこっと話したとき、なんとなく「このお人なら大丈夫だ」って気がしていた。このお人ならちゃんと「義」を持っているって。 恋愛とかそういうのは自分の中でそういう感情を棄てているので、そういう駆け引きや感情論はまったく分からない。ただ、「義」について真剣に向き合い始めてから少しずつ、それがある人かない人か?そしてどれくらい「義を重んじているか」というのも見抜ける・話題から引き出せるようになってきたと思う。普通の奴らよりはそれが出来る自信が、今ならある。 相手と大真面目につきあっていきたいなら、当たり前だが嘘偽りないようにしなければならない。スジを大事にしなければならない。それがなければ義でつながる段階にまでさえいけない。そして、義でつながったと実感したらそれを続けなければならない。そうだな・・・・・・・究極の理想系は高橋先生の漫画の漢達のようなきっちりした関係。特に武装戦線の漢達のようなスジを大事にする関係。まさしく高橋先生の漫画こそ「友情、義ってなんだ?漢ってなんだ?」というものを分かりやすく実感させてくれるだろう。 「お前は結婚相手どころか彼女すら探すないんかいな?」 ああ、勿論ねえよ。恋愛よりも数段素晴らしい「義」の魅力を知っちまったのさ。それを追い求めるなら一生独り身でかまわんよ。だから、生涯独身生涯硬派なのさ。ブログの写真の左薬指には、勿論今も「恋愛感情に関するものすべてを封印する、そういうものからガードする」という意味をこめてガーディアンのリングを身に着けている。 そして、義は同性じゃなくて立派になりたつことをもっと実践していくよ。
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2008年07月13日(Sun)▲ページの先頭へ
「(よろしく)お願いします」と「ありがとう」
私は色々なお店で注文したり、キャバや風俗に行ったときは必ずこの言葉を最初と最後に直接伝えるようにしている。これらに込めるものは、「私が客としてこれからなんらかのサービスを頂く+誠意を持ったそれをお願いします→私めなんぞに精一杯もてなしていただき感謝します」という気持ち。客が金を払うのだから店側が感謝の気持ちを示せばいいだけに過ぎないという人も居るが、それは違う。立派な人間らしく生きる為に派おごることなく、そして義を実践するためには可能な限りすべての存在に感謝を示さねばならないから。
精神的に余裕がないときや、もともと他人に対して気遣いをしない人、こういう場合必ず感謝の気持ちが欠けている。そしてそういう人・状態にあるときは店員がクレーム・理不尽にキレられているケースも多い。私も一昔前はそういう人間だった。今思うと当時のじぶんが恥ずかしいなぁ。傍目から見ているとそれはみっともない。関連したことでちょこっと前にY嬢からこんな話を聞いた。たまたま彼氏とご飯食べに行ったレストランで隣に座ったカップルの男がそういう人間でみっともなかったとか。店員が来るのが遅かったからか、品物間違えたか忘れたけどめっちゃキレたとのこと。店員にも落ち度はあるが、別に店員の態度が悪かったわけではないということ。そりゃあ店員の態度があるまじきものならキレるのも少々うなずける。それを見てY嬢側カップルはドン引きしたんだとさ。ってめっちゃ一人で大騒ぎしていたのだろうな。彼女側はそれほどでもなかったらしいが・・・・・・・・。 そういう態度ひとつで、その人に普段から感謝するという意志はまったく見られないのだろうということが分かる。可能な限りすべてのものに感謝をと心がける人間はものすごい筋違いのことでない限り普通に受け流す。それだけ人間として余裕があるから。 そして、すべてに感謝の気持ちを汲み取ろうとする人間は同時に義を大切にする心も芽生え育てられる。感謝と義は相関関係にあるだろう。特に、義でつながったもの同士はお互いに感謝の心を忘れてはならない。好意を理性で示そうとするものが義。時に好意は感謝にもなりうるから。 色々なキャバクラで、初めて対面する嬢には「よろしくお願いします」と頭を下げるとびっくりされるケースが多い。最近はそのたびに、感謝と義についてちょっと説明する。特に、商売柄彼女達にはこれらを理解してほしいから。仕事柄、彼女達は余裕がないときも多々ある。感情的にも生活的にもそうなるときが多い。そんなときにこそ、感謝の気持ちと義の相関関係を忘れてはいけないのだ。
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2008年07月12日(Sat)▲ページの先頭へ
我が我であるために
「我が我であるために、引いてははならぬものがある」
自分が自分であるために、前回私はどんなに追い詰められていても・・・・・・。愛を全部棄てても義だけは棄ててはいけない。そう結論した。私のなかで愛はエゴでしかない。好意をエゴに向けたものが愛。それを理性で高めようと試みるのが義。たとえ自分以外皆反対しても、馬鹿にしてもそれだけは引いてはならない。ここで引くことは自分を否定することだから。 人間は嘘偽りの沼に浸かって生きている。だからこそ、しっかりと流されぬよう「自分の生き方」を定めて歩かねばならない。私の場合は義だが、人により引けぬものは様々。私は流される者は嫌いだ。冷酷な言い方だが自分の信念がない奴は生きている価値がないとさえ思う。 私が過去知り合い、長く付き合ってきた連中は友人知り合いともに「朱に交わっても赤くならない」人間だ。大学時代の友人達ではDくん、ネーサン、Yochi。キャバクラで知り合ったY嬢、中学時代からの友人H。彼らは特に「我が我であるために」というものを持っている。 そういう人間は、価値観に縛られない。だから人間的にも魅力が出る。最近になって、人間は外見だけでもないんだということをひしひしと感じている。まあ外見は最低限必要であるが、それ以上に生き様が大事であることが分かってきた。自分を持っている人間は自然と魅力が出る。こういう考え方にシフトしてきたといってもやはり外見をおろそかにする輩は終わっているのだが・・・・・・。まあ、自分を持ちよく考える彼らは勿論外見もしっかりキメている。それは義をもって相手に恥をかかせないように振舞うからであろう。 自分を持ち、しっかり考える人は、ちゃんと義で行動しているような気がする。そういう人の周りには、自然と同じように自分を持ち義で行動する人が集まる。逆に義がない人の周りはやっぱりそれがない人たちの集団だ。 俺は硬派・漢を目指すんだ!!!!そのためには何があっても義を曲げないぞ!!!
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2008年07月11日(Fri)▲ページの先頭へ
愛と義について
私の人生は、愛ではなく義で貫き通そう。そういう考え方で定着した。今時古臭い、オヤジ臭いと馬鹿にする輩だって何人もいる。私は本気でそれをアツく語ってもそれをかる〜く冗談っぽく受け流されたりするのがほとんどだ。でも、分かってくれる人は分かってくれる。それでいい。そういう人は私が本当に大切に思う人間であり、義でつながる関係なのだから。
まず、愛とは何だろう。一般的な定義から書きなぐろう。一言でくくられちゃうものでも、中身はすっごく難しい。宗教によっても意味が違ってくるし、余りにも難しいためか哲学ではほとんど扱われない。唯一みられる例がプラトンの「饗宴」。私は今まで恋愛のことでしか捉えていなかったが、うんいっぱいある。親子・友情・モノへの愛着もそう。好きより深い感情とはしょってしまえばそれまでかもしれない。でも調べれば調べるほど定義しにくくなる。宗教的定義は色々調べてほしい。ぶっちゃけ書きなぐるのがめんどくさい。それくらい羅列できるだろうから。 うん、こうしてみて改めて愛と義について考え直さねばならない。考え直した結果として、まずその他のものを大切に思う感情を好意と区別しておこう。私の中で、義は「人への好意を理性的に問い直しそれに基づいて行動を決める規範」という新たな定義ができた。対して愛は「人やモノへの好意を一層深めそれを抑えられぬ感情」としておこう。義は好意を理性的に運用するためのもの。愛は好意を抑えきれない暴走または暴走一歩手前のもの。愛は理性が立ち入る区域はもはやないからこそ人は時としてこれに苦しむのだ。ベタだけど、愛により暴走して逆に人を殺してしまうなんてそう。愛により暴走してしまった人間はもはや相手のことを考える余裕はない。自分の感情でイッパイイッパイ。それはとても浅ましい。 対して義によるつきあいは相手に対する好意があるのは勿論だが、それを元につねに「考える癖」をフル稼働させている。お互いにである。それはお互いのスジだったり、面子だったり、プライドだったり・・・・・・・。とにかく「相手が大切だから相手に恥をかかせる、面子を汚す行動をしてはならない」と律している。好意があるからこそ相手のことを考えお互い精進することを常に心がけること。それが義の根本である。 しつこいけど、以前から男女関係は最終的に義の関係に落ち着くであろうと語ったのはここからである。 似ているようで、まったく違う愛と義。エゴに陥る愛よりも自分+相手と高めあえる義の人生にチャレンジしてみてほしい。
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2008年07月10日(Thu)▲ページの先頭へ
自分の定義した「死に至る病」
この「死に至る病」とは、もとはといえばデンマークの哲学者キルケゴールの著作の表題である。彼による絶望=キリスト教的な死に至る病の定義である。絶望をこのように呼ぶのは私も参考にするが、彼の定義と私の定義ではまったく違うのであらかじめここで言っておこう。今後そういう視点で絶望を扱っていく。
私の中で、絶望とは「日常生活から感じた心の渇望・乾きを潤すこと、欲望のイデアを知りそれを探すことを失うことから考える癖を放棄しそこからすべてを放棄した状態」である。絶望の発端はすべて自分の心が何をしても満たされなくなることを感じたときである。そしてそれは自覚すればするほど「欲望のイデア」を求めるようになる。私が時折鬱になるのもこれらのためであり、そのたびに「私が本当に満たされるとはどういうことか」ということと「人生の意義」について深く考える。今までそこから「人間は最終的に愛ではなく義である、そしてそのもとは考える癖」と結論を出した。今のところの結論。また前回、前々回あたりに義も「他人と深い信頼を築きたい・自分を高めたいという同時進行の欲求」とした。自己満足とすべての人間に対してのものとを同時進行でおこなうことが義でありそれは恐らくすべての人間が大事にしなければならぬものであろう。 ネットの世界は特にこの義について注意して徘徊せねばならぬ。先日とあるブログ上での誹謗中傷についてのエントリにコメントした。私も結構前によくコメントしていたブログ上で、意見の食い違いというきっかけ以降のコメントは完全無視くらった。私はこうしてメールアドレスも公開しその人には意見はこちらのブログまたはメールで受け付けると回答していた。で、その後返答はなく別の記事に試しにコメントしたら私の記事だけ放置かよ。どうせなら完全削除のほうがよかった。さらし者にされたときの屈辱、面子とプライドを汚されたと思った。その瞬間からその人のことを見損なったし訪問する価値はないと斬り捨てた。 話が吹っ飛んでいきそうなので修正。私が絶望するときは、こっちが真摯に相手にぶつかっていこうとしても反応がない、それどころか筋違いや義を無視した扱いで対応されたとき。義やスジを今時は「古臭い・オヤジ臭い」と馬鹿にする人が多い。そんな現実を目の当たりにするとへこみまくる。それでも、私はこの姿勢をつらぬく。これを棄ててしまったら私が私でなくなりそうだから。棄てたら硬派を目指すことも、なにもかも放棄してそこから人生自体を放棄してしまうだろうから。 最近欝だったというのも、そのことが結構あるんだよな・・・・・・・。人間は醜い。うざい、皆消えてしまえばいいのに。本当にそう思っていた黒い自分がいる。そのたびに理想主義者の「だから義が必要なんだよ」と説得する白い自分が居る。 締めに、私はよくここで愛を必要としない人生について述べているが、否定はしていない。私が自分の生活で愛を必要としていないのはほとんどが「自己中心的な、自分の立場からしか芽生えない感情」でありエゴの塊であるととらえているから。これはときに白い自分のもとにもなろうが、黒い自分を育てる元にもなる。ならばそれを棄てて白い自分をそだてることのみに注がれる義を重んじようという立場をとりたい。 今後、私は何度も復活と鬱を繰り返す可能性がある。ただ、自殺や殺人にだけはゆがみたくない。それは義を否定することになるから・・・・・・・・・・。
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ネタは溜まってきましたが
嗚呼、書きたいことは溜まってきましたが今精力的に書きたい優先順位はもう愚者なりの哲学的、思想的なテーマばっかりです。鬱から復活しようと這い上がるのもあってかどうしても重いテーマばっかだ・・・・・・・。
で、ネタをくれと頼んでいる皆様にこの場を借りてお詫びを・・・・・。 もうすこし精神的に安定するまでこの傾向は続きます(汗)。 Y嬢や〜。キャバクラネタとか、いただいてはよアップしたいんですけど、なかなかできてねえっす。ごめんなさい。彼氏さんや友人嬢サン達も元気でやってはりますか〜。自分の勝手な都合で重いテーマばっかですけど、自分の苦悩だけでなくなるべくみなさんの役に立つ内容を扱っているつもりなので勘弁を。 大学時代からの真友ネーサンとYochiや〜。まさか今度の三連休の機会にほんまに大学の同窓会するとは思っても見なかったですよ〜。5月にはあっしの「考える癖と義で貫くべき人間論」を語りすぎてごめんなさい。同窓会では暴走トークし過ぎないようにするぜぃ!!!!!!あのネタも書きたいよ〜。 最後に、萌姐さんへ。多分私よりもでっかい苦悩中ですよね(汗)。直にその理由を知らされたことで、想像以上に重大なことだと知りました。見当違いのことをメールで送ったこと+無礼を承知で姐さんのブログに追加回等コメント書きました。マジでヤキ入れを御希望なら機会を作ってはせ参じます。舎弟ですので・・・・・・。 お世話になってる皆様、まずは頑張って自分のちょい鬱状態からの復活へと這い上がりますので見守っててください。よろちくおねがいしまするぅ。
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管理人・鴉'sについて
![]() 漢・硬派を目指す27歳 女よりも漢を好む変態!! 滝川クリステルが最近一押し 好き 格闘技観戦 格闘家 TFOA キャバクラ調査 ゼブラ黒子 チラパト・ヌルパト 筋トレ オナゴのくびれ 猫 等多数・・・・ 嫌い 基本的に赤の他人 偽善者 募金詐欺 自分が馬鹿だと分からない奴 主義 生涯独身 恋愛排斥 目指せ漢 ウイルスは送るなよ!!!!! cute-boxe-silva@hotmail.co.jp アダルト宣伝系、パチンコ攻略関係は容赦なく削除。リンクフリーです。
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あと、ここでは硬派については「恋愛感情そのものを放棄し、ひたすら義・スジで生きようとする人間関係を求める者」「知力、肉体両立したいわゆる男らしい人間を目指すもの」としています。なので突っ込む前にここと過去の記事を読んでくだされ。
カレンダ
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