生涯独身!!!!社会不適合者奮闘記 - 2008/06

これは、CROWS、WORST、QP等の漢にあこがれるへっぽこ野郎が日々書き連ねるたわごとです

2008年06月28日(Sat)▲ページの先頭へ
最近凝っている和柄シャツ
 和柄の刺繍が背中に施されているTシャツ。これ一部では流行ってますよね。龍・虎・鯉・牡丹・般若等色々なものがあります。刺青でよく扱われる柄がシャツになったと捉えてもいいでしょう。ただ、もうちょっと珍しい柄はないものか?と思ったところ私の中でキタものを貼り付けます。




 
 これ、歌舞伎剣の右近さんが元ネタ?ってくらい似てる。まさにパチンカーのための和柄やないかい!!!!!ということで即買いました。勿論パチ行くとき、これを着たときは歌舞伎剣爆発してほしいな・・・・・・と願ってますが現実は甘くはないです。他にも浮世絵チックな刺繍、その他歌舞伎役者風のものもありましたので、いろいろと手に入れたいと思います。私の和柄Tシャツのジャンルは歌舞伎風で決まりだな。

 ちなみに、購入した店はよく武装戦線モノを買いに行く大阪アメ村のレグルスであります。ちょっと画質悪いですが勘弁してください。




入り口に武装ジャケットが飾られてるよ


本音で生きること
 大人になるにつれ、一つ歳を重ねるにつれ、本音で生きることは難しくなっていく。それは人間社会と言うものが嘘偽りで塗り固められているもの、またはそうでなくば成り立たないものであるからだ。嘘も方便という言葉があるように・・・・・・。

 子供の頃、我々は「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉を何度も聞いただろう。しかし、現実はそうではない。政治家だって、大企業の社長だって、はたまた警察関係のお偉いさんだって嘘つきまくりだ。詭弁と欺瞞だらけの世の中。何が真実で何が嘘なのかも見抜けないまま過ごさねばならないし、そして我々の大半は忙しすぎてそんなことを振り返る余裕もない。

 漢を目指すものとして、一人ひとりに体当たりで突き当たって生きたいわけだが、現実はなかなかそうもいかない。こちらが本音でぶつかりあっていたくても、相手がこちらを騙し欺こうとする場合だってあるから。まず見ず知らずの他人には警戒しなければならない。危険な人間には本音だけでぶち当たるのは馬鹿だから。でも、できることなら誰だって本音でぶつかりたいはず。嘘偽りなく生きていたいはず。皆常に「俺の生き方はこれでいいのか?」「自分の生き方に嘘をついているのではないか?」ということを思いながらも向き合わないようにしている。それを思ってもどうにもならないし世の中が簡単に変わるわけではないから。

 非効率な生き方だと分かっていても、私は出来るだけ本音で生きていたい。本音を通すことにより、初対面での親交の深め具合も違うから。勿論、ちょいと話してその人間が信用できるかどうかを判断した上で・・・・・・・。ん?そうして値踏みする時点で本音を通すことではなくなるのか?人間関係って難しいし、とっても疲れるなあ・・・・・・・・。


2008年06月27日(Fri)▲ページの先頭へ
ギャンブルが違法な意味が分からない
 先進国で、カジノがおおっぴらにできない。ギャンブルが違法として取り締まり対象になってしまうのは日本だけではないか?競馬、競艇、競輪は普通に公営としてあるくせに、そしてパチンコは?これほど矛盾だらけの状況を晒している国はほかにないだろう。

 連日闇スロや闇カジノで摘発されるニュースを見て、いつも疑問に思う。解禁すると破産者がいっぱい出るからとか、もっともらしい理由をのたまう識者がいたりするがそうでもないと思う。やろうと思えば(今は違法である)ミナミや歌舞伎町で闇賭博を探しに行けばいい。やりたくなければやらなければいい。ただ、人生を冷静に考えるとそれそのものが「ギャンブルに始まりギャンブルに終わる」と言えるのではなかろうか?そして、ギャンブルの醍醐味とはなんだろうか?

 私が好きなパチンコも、今時誰がお遊びと思うだろうか?パチンコは馬、チャリ、船に比べてはまる人も多い。所謂依存症?ただ、私のように逆にそれがあったからこそ立ち直れた奴もいることをここに主張する。歌舞伎の振り落とし、最近では海の魚群もちょっと気持ちイイ。特に振り落としは心が洗濯されるようでなんともいえない。不謹慎だがマジで激アツアクションの当りはセックスよりも気持ちイイと思う。

 そんなことは今どうでもいい。ギャンブルは、実は考えてやるものだろう。特に、福本伸行氏の有名な賭博漫画「カイジ」はその心理描写を上手いこと描いていると思う。刺さりそうなアゴに関しては敢えてノーコメントで(笑)。ギャンブルとは考えて其の末に読みどおり勝つことに快感を覚える。本当のギャンブラーとは依存症にはならない。そこから人生哲学を学ぶ者だっていくらでもいる。だって人生自体がそうなのだから。誕生、受験と進学、就職、結婚。重大な局面はすべてそう。東大に行ったとしてもまだ人生のギャンブルに勝ったとはいえない。社長になってもまだまだギャンブルは続いている。以前話題になった六本木ヒルズ族の話題とかを見てもそう思う。意外と人生をギャンブルそのものと悟る人っていないよな。だから賭博法を廃案してしまえという声があまり聞こえないのか。

 日本にもおおっぴらにカジノが出来ればかなりの経済効果があろう。乱暴な言い方だが、破産したい奴は勝手に破産すればいい。そんな奴はもはやギャンブラーではない。先ほども書いたように、今の賭博法がある状況でもしたい奴は馬、チャリ、船、パチンコ、各種裏賭博などに足を運ぶ。破産したい奴は勝手に破産する。裏賭博は特に流れる金が大きく、それはほぼ本職さんのほうに流れる。それが賭博解禁なれば税金として国に入るのだ。公営カジノを作れば賭博税ができる。それを丸ごと福祉に回せばいい。赤字国債の返済にもあてろ。むしろそうするしか今後の日本の財政建て直しはないのではないか?


2008年06月26日(Thu)▲ページの先頭へ
早速ですが
 私のもう一つのブログで、ミナミを根城とするパチプロを主人公とした小説を書き始めました。ま、ノリで書いているので文章力が・・・・・・(汗)。結構時事ネタ等も入ってきたりもしますし、私が影響を受けている思想・哲学ネタもついつい書き入れちゃったりもしますが、そこはてきとーに流してくださいな。

 ま、あくまでも自己満足の駄文小説ですので、あんまり突っ込まないでね。


2008年06月25日(Wed)▲ページの先頭へ
とりあえず
アメブロのほうで、適当に自作小説を書いていこうかなと思い急遽作ってみました。

ミナミのネオンに集う者達へってタイトルで今後不定期に書いていこうと思います。

更新状況はここでも書いていくのでよろしくお願いします。

ま、内容は恋愛系一切ありません。

多分、ひたすら登場人物は野郎ばっかなんだろうな・・・・・・・。


行動力、そして遊び心、そして生き銭とは?
 2週間近く前、私は突発的に一ノ瀬萌姐さんのところへ杯をもらいに(まぁ、舎弟になるつもりで)行った。その様子はここを参照しておくれやす。そのときに姐さんに「夕方まで京都にいて、そこから歌舞伎町にって行動力あるね」と言われた。時に、人間どうしても今やらねばならないと思う・感じるときがあるはず。そのときは素直に自分のその感覚に従わねばならないと思う。

 計画性なんてまったくないことこの上ないものだ。しかし、それが出来るかできないかでは大きな違いがある。あのとき無理してでも行動しておけばよかったと後悔するくらいなら、大金はたいてでも行動するほうがいい。今すぐやらねばならぬと直感で感じたときはたいてい行動後なんらかの有益な経験が得られることのほうが多いように思える。行動力があるかないかは、その直感に素直に従えるかどうかということではないだろうか?

 自分のことですらあれこれと迷うような輩は、行動力なんてない。そして行動力がないものは遊び心も育たない。遊び心とは経験値豊富な人間。経験することにより考える癖を養った者。故に色々と飛んでまわり、遊びまくった人間はそれだけ色々な経験をしてきたのだから遊び心たっぷり→余裕ある人間になれるのだ。さらに極めれば所謂粋人という領域にまでいきつく。

 ちなみに、あのとき歌舞伎町にふらっと逝ったとき新幹線代も含めて10万以上一晩で使った。ただ、姐さんの舎弟になることはできたし歌舞伎町も再び堪能できたし10万以上の経験値を得たと思う。目的を持って使う銭は生き銭である。遊び→考える癖につながる銭は全て生き銭になるのであろう。逆に言うといくら貯金しても自分の経験値を得るためにならぬ銭は死に銭である。貯金のみにいそしむのもよいが、貴重な若い時間がその分失われるのであれば、それは死に銭といえるのではないか?こんな時代だからこそ、我々のような20代は貴重な時間を作り過ごしていかねばならない。

 他人から見て「何でそんなことにお金を使っちゃうの?」と言われるようなことでも、自分には使った銭以上に有益な経験値を得られるものであれば、その銭は無駄遣いではない。使うべくして使う銭であり、それは立派な生き銭。ただし、何でもかんでも使いまくるという、目的なき銭の使い方は死に銭となりそれは無駄遣いとなる。

 お金を使うのも、貯金するのも、やり方と目的の持ちよう次第では生き銭にも死に銭にもなる。理想なのは、生き銭として使う分と貯金分をきっちり使い分けることである。お金こそまさに中庸が理想ではないだろうか?
 


2008年06月24日(Tue)▲ページの先頭へ
私は今やばいかも?
 間違いなく、今私は慢性的な病み状態にあるだろう。頭の奥底に潜みつつ、何かあるたびに暴れだす「人間とは?生きる意味とは?」という悩み。他人との接触・同調が苦手、いやむしろ嫌い・面倒な自分にとって凄く鬱なテーマにもなる。

 人間って、一人では生きられない。これ事実。そして「考える癖」を寝るとき以外サボってはならない。品格・空気を読むことは凄く大事といつも言っているくせに自分は場を読むことが苦手。だから、他人だらけの中だと凄く気を遣って病みそうになる。そんな時、闇の自分はいつもこんなことをつぶやく。

「うぜぇ・・・・・・。みんな消えてしまえばいいのに」
「人間なんて自分さえ良ければいいんじゃない?」
「集団になじめない人間は悪なの?お前ら消えろ」

 うわあ・・・・・・。俺病んでる?そうだな。全てここからなんだよな。元来他人なんて面倒、出来ることなら関わりたくない。人に合わせることほど苦痛なことなんてないから。自分をさらけ出しても、自分にリスクを背負ってまで他人に理解してほしいとアピールしても、一体どれだけの人間が理解してくるの?半分以上は無理?じゃあそんな労力って無駄じゃないかい?闇の自分はそんなことを囁いてくる。

 何もかもめんどくさくなる。ホント、秋葉原の事件は人事じゃないなあ。親近感を覚えること事態普通の人から見たらは異常かもしれない。きっと、硬派を目指そう・未熟ながら人間力を修行しようとしていなかったら私も同じことを起こしていたかもしれない。ああ、やはり人間であることは理性があることなんだろうな。その理性は「考える癖」を作る礎となるもの。

 ここは私の心の闇・人間についての疑問を書き連ねる場所。だから、どんな危ない闇でもかきなぐる。ほとんど理解してくれなくてもいい。数%くらいの、一握りの数でも共感してくれる人・意見をくれる人がいてくれればそれでいい。そうすれば、まだまだ人間も捨てたものじゃないと思えるだろうから・・・・・・・・。
 


2008年06月23日(Mon)▲ページの先頭へ
これこそまさに・・・・・・・・・
 私、鴉'sは怖い話とか心霊スポットの話、各種オカルト話が結構好きだったりします。一時期心霊スポットめぐりとかもやってました。うん、今から考えると結構無茶苦茶でしたね。

 で、今回の話は、とある実話投稿本だったか、人に聞いた話で人間の恐ろしさを味わった話です。そしてある意味私の座右の銘を感じた話でもありますかと。ある日、高校卒業を控えたY君は、何年かぶりに小学校時代の同級生E君から電話をもらいました。E君は、過去にめっちゃいじめられておりまして、そこを助けたのがY君でした。Y君は小学校から空手をやっていて体もでっかい猛者。いじめっ子3人(A君、B君、C君)をフルボッコにしていじめをやめさせたくらいの漢でした。のちにY君は小学校6年のときに転校してしまい、E君とはそれっきりだったのです。さてさてなぜこのタイミングで連絡してきたのだろうか?ま、懐かしさに話が弾むとそんなの関係ないわけですよ。

 Y君は、卒業旅行として家族で韓国に行く予定でした。で、その話をするとE君は急に真剣になり、その旅行は行かないほうがいいかもしれないと言い出しました。理由を聞いても言葉を濁してあまり語りません。一方E君はというと、過去のいじめっ子3人と今度ドライブがてら遊びに行くとか?いつのまにそんなに仲良くなっていたのだろう?まあちょっと引っかかったわけです。

 さてさて旅行当日。大変なことにY君のお父ちゃんが階段からすっころんで足を骨折しちゃいます。こりゃ旅行どころじゃねえや!!!!!ということで急遽韓国旅行は中止です。ただ、ここでひっかかるのはお父ちゃんのこの言葉「誰かに足を引っ張られたよ。まじで」。で、その日は病室でほとんどをすごすことになりました。しかし、これで終わりじゃありません。Y君とおかあちゃんが帰りの車でラジオをつけていたところ、ニュースで飛行機事故が韓国で起きたことがやってました。しかも、丁度彼らが乗る便。機体は空中で大破。恐らく生存者は・・・・・・・・・。そのときはなぜか訝しがるより先にE君にお礼を言おうと電話したわけです。

 が、E君の実家に連絡したところ彼は3年前に既になくなっていたことが判明。しかも、自殺でした。小学校の頃おさまったいじめが中学で再発。勿論相手は同じ三人でした。Y君は彼にお礼と冥福の意味をこめて手を合わせました。

 ただ、話はこれで終わりません。Y君の小学校時代の友人で、高校で再会したD君から、電話がかかってきました。なんと、いじめっ子3人が車でがけ下に転落。三人とも即死だったそうです。しかも、そこはE君が3年前に自殺したところだったとか・・・・・・・・。さらには事故が起こったのと同じ日にE君宅では、どんなに探してもみつからなかった彼の遺書がみつかったとのこと。

「あの三人は絶対許さない・・・・・・・・。どんな手を使ってでも必ず地獄に送ってやる」

 これこそまさに因果応報。死んでからも恩を返す・そして逆に報復も。この話を信じるかどうかは別として、怖いというよりも考えさせられる話でありました。


ああああっ、久々の生キジトラ猫!!!!!
 この前の連休、歌舞伎剣でボコボコに負けてへこんでいたところをこの猫君に癒されてました。ああ、人なれしていて触れる(* ´Д`*)。なんてすばらしい猫君。しかも好みのキジトラ系!!!!!!

 20分くらいこやつと遊んでました。というか私は遊ばれたのか?だってこんなに人なれしている猫君と戯れる機会ってなかなかないですよ。しかも、しっぽがモフモフしてさわり心地(・∀・)イイ!!しっぽ最高!!!!!しっぽをデコピンしたら「何すんねん!!」て表情でこっち向いてくるわけです。たまらんわぁ・・・・・。

 首輪しているから、どっかの飼い猫なんでしょうね?でなきゃアレだけ人なれしているわけない。

 ああ、だれかほんとに2時間ほどキジトラ、茶トラ系の猫貸してください。勿論イタズラします!!!!!1


りりしい横顔
スフィンクスみたいだ


寝転んで欠伸
警戒心ねえなあ・・・・・・・


2008年06月22日(Sun)▲ページの先頭へ
自分の人生の今後について
 はっきりと言えることは、10年後も100%独身でわが道を行く生き方をしているということ。26で既にフツーの幸せに疑問を持っている。家庭を持つ自分なんてまったく想像できないしどうでもいい。私の年代になると、次々と結婚し家庭を持つものが増えてくる。私も友人の結婚式に足を運ぶ回数も増えてきた。

 又聞きでパパ・ママになったのかという話もちらほら。落ち着くってこういうことなのかなと思ったりもする。ただ、落ち着いたと同時に人生への探求も忘れてしまってはいけない。フツーの幸せを持ったままそれも持ち続けるケースは少ないし難しい。フツーの幸せをもつことは無茶できなくなること。そういうもんだと聞いた。何かを得るためには何かを捨てなければならない。ただ、私が家庭を持ってフツーに落ち着く姿を見たら、それでいいのかと感じてしまう。家庭を持てば仕事とそれの往復の生活。そしてそれが淡々と毎日繰り返されていくのみ。ただ機械的に仕事→家庭→仕事→・・・・・・・・・の生活でしかないのではないか?それを想像すると、人間はなんで生きているのか?人間は何のために死に向かって進んでいるのだろうか?一度しかない人生の過ごし方はどういうものが一番幸せなのだろうか?最近そんなことばかり考えている。

 お金持ちは本当に幸せなのだろうか?エリートは本当に幸せなのだろうか?そもそも本当の幸せって何?誰か私に的確な答えまたはヒントをくれ。

 本当の幸せって?今後これを模索する旅が続きそうである。


2008年06月20日(Fri)▲ページの先頭へ
裁判員制度について考えてみたい
 秋葉原事件のこともあり、来年から導入される裁判員制度について考えていきたい。まず、これは何故今導入されようとしているのか?一時期報道されたときもあまりその理由や背景が説明されてなかったような気がする。いつのまにか来年施行されようとしている。

 国家から選任された一般国民が裁判官とともに一つの事件の裁判を手がける。重大な事件に限られるようであるが、一人の人間の死刑・懲役年数を決めるのに我々も加担することになるのだ。この意味は極めて重い。まず、裁判官というものに対し個人的には「公務員の中で最も公平さ・責任・倫理観が課せられる職業」であると思っている。裁判官は被告の有罪・無罪からムショ送り、そして死刑判決まで一人の人間の行く末を決めるからである。死刑についても考えると生存についてまで決めることが出来るのである。よって裁判官は相当な覚悟をもって裁判に取り掛からねばならぬ。特に最高裁判所裁判官の責任感は一般市民では想像もできないようなものであろう。

 裁判員制度で選ばれたらば、同時にその人間もその「一人の人間を裁くということ」について真摯に考えなければならない。相手がたとえ自分の親しきものであろうとも、公正に・倫理的に裁かねばならない。ある意味マシーンとして個人の感情を押し殺さねばならない。国会で決めるのはよいが、議員の先生方は「裁判」についてその重大さと裁判官の職務の重さがまったく分かっていないのではないか?仮に、私がもし秋葉原事件の被告の裁判に裁判員として出席することを選任されたらば、簡単に無期懲役・死刑判決を選べない。彼について調べれば調べるほど自分との類似性が明らかになり、人事ではないと思ってしまったから。そしてその個人的感情は捨てなければならない。それを捨てて考えたら、彼はどうあがいても死刑を免れることは出来ないという結論しか出ない。ただ、いくら凶悪殺人犯とはいえ一人の人間の命を左右する判決を自分が決めるきっかけを与えることが容易に出来るのか?

 裁判員制度は、果たして本当に必要な制度なのだろうか?今後暇を見つけては文献・専門書を読みつつ考察していきたい。


2008年06月19日(Thu)▲ページの先頭へ
退屈な人間に囲まれてたまるか!!!!!!!
 平凡な生活・普通の幸せというものは人間の「考える癖」を退化させていく。そしてそうなる者はそうなる者同士がよりそうものだ。個がない平凡な人間に成り下がってしまう。そして最悪ただのヒトになる。日々の生活に対し何も感じない・何も疑問を持たない者など何の魅力もない。退屈な人間に成り下がったものは遊び心を知らないし一緒にいても面白くない。そして、そんな人間とずっと一緒だとこっちも知らず知らずのうちに染まってきてしまう。ゆえに、時には人間関係の洗濯が必要になるのだ。

 これは、仕事関係・友人関係・男女関係すべてにあてはまるさらに面倒なことに、平凡な・普通の幸せな生活を送る多数派はそれを否定し挑戦する者を説得しようとする。説得して普通に幸せになることを強要する。平凡な幸せと退屈は紙一重であることを隠し自分達のもとへ引き戻そうとする。

 幸い私の友は、普通の幸せを否定し自己を高める者が多い。刺激しあえるもの、お互い切磋琢磨できる他人が友であり、そのなかで「義とスジという丈夫な鎖でつながれた関係」が真友である。親友ではなく真友である。

 さらに、真友はお互いの成長のために、お互いが自己を高める修行を怠ってはならない。成長速度の違いはあれど立ち止まることはお互い許してはならない。妥協したらあなたの人間力はそこで成長が止まる。死ぬまで走り続けなければならない。年老いて真友が先に死んだとしてもあなたは止まることを許されない。

 人生で最も必要なものは、私にとっては恋人ではなく「真友」なのだ。そして真友同士というものはお互い刺激しあえる存在でなければならない。退屈な人間に囲まれてしまったら、そういう貴重な存在を作る機会が失われてしまう。真友なくして己の成長は出来ない。逆に真友を見つけるためには己が日々精進せねばならない。

 


では、他人の心を開くには?
 人生は基本警戒して生きるべし。寝るとき以外気を抜いてはいけない。無意識で考える癖を実行できるまでにならなければならない。これまで私は常々ここでこう呼びかけてきた。では、自分にとって信用できる相手をどうしても作りたい場合は、どうすればよかろうか?

 これはあくまでも私の経験のみのことだが、こちらが裸の自分をさらけ出すことである。そして「義」と「スジ」を重視するつきあいをしたいとアピールすることである。会話の流れや自身の態度で裸の自分をさらけ出し、義とスジを重んじる奴であると理解してもらえれば警戒心は解けるだろう。どんなに悪どい者でも、8割がたはこれでいけるはずである。ただ、残りの2割は注意しなければならない。あなたがまっすぐ付き合いたいと思う心を逆に利用しかねないから。

 あなたがまっすぐ付き合いたいという思いを踏みにじる輩は、斬り捨てろ。そういう輩には情け無用である。逆に残酷に扱うべし。他人の痛みを知らぬものは己の痛みとして味わったことがないのだ。スジを通せないものにはそれに見合った罰が必要である。故に、凶悪なる殺人罪の罰として死刑が存在するのだ。他人の痛みを省みぬものには自ら身をもって味わってもらう。そういう意味では死刑はスジが通っていると思う。もし死刑をなくすなら、ある意味死より重い終身刑、そしてその終身刑の中にも「死んだほうがまし」と思える刑罰ランクを作らねばならない。オウム並みの凶悪な殺人ならば「強制労働型終身刑」がよいだろう。もちろん一生ただ働きである。流石にタコ部屋とか戦時のような相手を殺すほどの過酷なものにはしてはならないだろう。まあ倫理上の制限はあるが、人間は終わりなき労働に対し絶望を覚える。体力的ではなく精神的に絶望させることで悔い改めさせる終身刑である。

 他人の心を開くためには、己が博打を打たねばならない。己が体を張らねばならない。そうすれば、どんな性格が悪いといわれる奴でもたいていは心を開かざるを得ないだろうから。そして、その心の開き具合は、あなたの「人間力」の度合いで決まってくるのであろう。


人生気を抜けば、ケツの毛までむしられる。そう思うべし
 人間一人当たり、一生のうちに知り合う人間なんてたかが千人にも満たないのではないだろうか。下手したら百人程度だってこともあるかもしれないし、一万人もいるかもしれない。ただ、普通に生活していたらこの程度だと思う。

 そのなかで、あなたが親しくなるのは多くても数十人まで。そして最終的に残る友人はたかだか十数人程度だろう。最終的に残った友人のなかでも、本当に信用できる、命を預けられる・言うなれば走れメロスのような友人は2人〜5人までだろう。我々はそれだけ信用できないどころか用心しなければならない人間に囲まれて暮らしているわけだ。騙し騙されという関係だったり、出世競争等で蹴落としあうものだったりと争うことも多い。いやいや人生なんてすで高校受験で「他人との競争・蹴落としあい」が始まっているのである。もっと早ければ中学、いや更には小学校のお受験でそれが始まってしまっている。

 就職活動も、所詮騙しあいと蹴落としあいでしかない。面接なんて本音でとおそうとしたら受かるものも受からないのがほとんどだろう。そういうものである。大人になるにつれ、人をまず信用するのではなく警戒してかかるのが当たり前となる。現実を知るからである。

 よって、人生という戦場を生き抜くための武器は「考える癖」となろう。やはりここなのだ。これがあれば警戒心をつねに抱くことになる。騙されないように堅いバリケードを張ることも可能。自分の脳みそこそが社会で生きるための唯一無二の武器であり更には防具である。考える癖はそれほどまで重要なものである。

 信用できない、下手したら敵だらけの中で生きることになる。それが人生だ。我々が気を抜いていいのは、死ぬ直前でしかないのだ。


2008年06月18日(Wed)▲ページの先頭へ
価値観の違い
 生きる目的の違い、何でこういう方向で人生を送るのかという違いは人によって様々。ただ、自分に後悔はしたくない。選択してあとからしくじったという将来が見えそうな・または分からない答えを選んでしまうというようものだけは絶対嫌だ。たとえ他人からはいぶかしがられる人生でも、自分が後悔しなければいい。

 だから、わたしは自分の選ぶままに生きるだろう。結婚?家庭?なにそれ?今どきその当たり前の生活だけに価値を見出す者はいない。当たり前の、フツーの幸せといわれりゃそうかも知れないが、わたしはそれを敢えて拒否する。フツーの生活は逆に言わせると刺激がなくなった生活。ゆるい生活。ゆるい生活は人間の「考える癖」を退化させる。ゆるい生活は普通の人間なら妥協してしまっている状態。一応普通に生活できるからいいかというもの。そういう人は、定年まできっとフツーに過ごしてフツーに老後を過ごすんだろうな。

 でも、フツーってなんだ?つまらなくないだろうか?生きている実感というものを、生きている実感という刺激を感じないまま朽ちていくのは嫌だ。私のこれまでの生活っぷりやプライベートの過ごし方は人によっては無茶苦茶、行動力がへんなところに向きすぎるとか色々言うものだ。そういう人に限ってフツーの人。当たり前の生活を送ってそれなりに貯金しそれなりに幸せな家庭を持つ。でも、それでいいのか?本当はそんな生活に退屈しているんじゃないのか?逆にそう問いかけたい。

 私は今フリーター。公務員用専門学校資金を溜めている最中。バイトのシフト日数が最近減ってそこは不安を感じないわけでもない。だから最近また真面目に歌舞伎剣その他打ち始めた。不安定な生活。でも、不思議と不安はない。いざとなったらパチンコでという覚悟と自信があるから。パチンコも昨今のスロットのようにいつ食えなくなるか分からない。ただ刺激はある。不安との戦いだが今年初めの歌舞伎剣生活は刺激的だった。パチ屋→夜の街→パチ屋→繁華街→夜の街→以下繰り返し。普通じゃないねこの生活。そのかわり刺激はたっぷりある。

 人生に本当に必要なのは人生の長短ではなく刺激の度合い。一度しかない人生だから、しっかりと「人間らしく」謳歌して死にたいものだ。私が望む死に方は、パチンコ台で歌舞伎剣振りおとしみたいな激アツアクション→大当たりの瞬間の興奮死。おじいちゃんになってそうしてぽっくり逝っちゃったらお店としては迷惑だろうけど、刺激の中で逝きたいものだ・・・・・・・・。


私もドクロを背負う理由
 なんか、最近急に人が増えたことでバイト日数が減りました。ということでまたも真面目にパチンコ開始。昨日と一昨日、京都・滋賀エリアの歌舞伎剣・海SAE+その他甘デジで頑張ってました。ただ、やはり往復代がきつい・・・・・・・。でも地元じゃ100%負けるし・・・・・・。何とか目標日当は稼げましたが、ちょっと今後を真剣に考え中です(´Д`)-y~~~スパー

 昨日もですが、私はパチ勝負やその他真剣なことに臨むとき、武装戦線の漢達を見習ってドクロを背負います。春物から冬物まで全部武装ウェアあるぜい。で、私がこのどくろに込めている意味は「素っ裸の自分で勝負すること・又は嘘偽りない素の自分で対面すること」であります。アニメの一休さんのもとになった一休宗純の行動をもとにしています。

 彼は奇行が多い、一部では破戒僧という逸話もあります。ただ、ドクロを杖の先につけて歩いている意味はある意味納得しました。人間は死ねば皆骨だけになってしまう。そこで人生のはかなさを悟ったという逸話だったかなあ?そんな話を聞いて、自分では武装の漢達もきっとそうなのかなあと妄想。それからですね。ドクロを背負う意味まで考えて行動するようになったのは。

 今、WORST最新話では花と天地のタイマン決着か。花勝利で次の話はどうなるんかいな?早く武装戦線出してよぉ。姫川が将五のところに行くことになる雰囲気だし。また新たにドクロを背負う漢が増える?恐らくは、彼も将五にボコボコに負けて裸の自分・それを意味するドクロを背負う決心がついたのだろうから・・・・・・・・。

 うん、ドクロと勝手な妄想かけまくりですね。


2008年06月16日(Mon)▲ページの先頭へ
人間について考えていこう
 人間とヒトの違いはなんだろうか?語源とか漢字のもともとの成り立ちそんなの無視して書いていくので突っ込まないでいただきたい。それは「考える癖」「理解力」の違いではなかろうか?それらがなければケモノとしてのヒトであり、人間ではない。私が今後取り扱う「人間」とはそれらがちゃんとある存在である。

 特に、歳をとってからのヒトとしか見られない者は恥ずかしい。仕事が出来るから人間らしいとは限らない。プライベートではヒトに成り下がってしまう者もいる。そういう者は自分の我侭だけを通そうとするし、考える癖がないので気遣いとかはない。キャバクラとか、風俗とかに行くと大半はヒトである。風俗はともかくキャバクラ等お水は「人間として」節度を持って楽しまねばならないと思う。

 人間から考える癖を取ったら何もない。その辺の動物と一緒である。だからヒトである。生物の教科書で人間を「ヒト」と表記していた。それは人間を生物学で分類して霊長類の項目を勉強するときのやつだったな。動物はカタカナだったし、人間も一緒にカタカナで動物の一種として扱っていた。だからこういう書き方で話を進めている。人間は考える葦であるという名言どおり、人間と考える癖は切っても切り離せないのだ。

 酒を飲んだり、博打をしたり、異性といちゃつくときとか、そういうときに「考える癖」を忘れてしまいがちだ。そこでこれを出来るだけ意識し、さらには無意識でこれを頭の中に置けるようになればかなりの人間力がつくだろう。人間として究極の高みを目指すには寝るとき以外「考える癖」を忘れてはならないのだ。

 そして、考える癖がつねに実行できる人間になれたならば、それを用いて友人等を啓蒙していかねばならない。いや、これが出来るようになれば自然とそういう人間が集まる。又は友人も刺激を受けてそうなっていくはずである。人間関係もこれをもとに洗濯されていくのだ。さらには自分より高度な人間と交流できるチャンスも芽生える。そういう人間と知り合う機会が増えれば、それだけ自分が成長できる機会も増えるのだ。

 私はまだまだダメ人間である。酒が入るとどうしてもまだ平静を保てない。アツくなりすぎると突っ走って語りすぎてしまう。プラウディアに行ったときも後半はその癖で反省すべきところがあった。キレイな酔い方とは「考える癖」を保ったのみ方であろう。人間らしい振る舞いをサボらぬよう、日々精進しなければならない。


2008年06月14日(Sat)▲ページの先頭へ
ジェレミー=ベンサムについてふと考え出した
 「最大多数の最大幸福」の名言、功利主義哲学を作った哲学者である。私は彼の哲学論についてはほとんど知らない。しかし、先日のプラウディアでの姐さんとの「幸せとはなにか」という話を終えて急にこの言葉が気になった。よってちょっと考えてみることにする。

 全てのものが幸せになる社会のことなんだろう。それがこの名言の示す意味ではないだろうか?では、それを作るためにはどうすればいいのか?飛躍すれば国家レベルの話になるだろう。戦争をしないこと、平和とは何か?個人レベルまで落とせば友人を作り信頼関係を築くこと、そして喧嘩せずに皆仲良くやること?

 では、どうやれば皆が争わずに秩序ある生活ができるか?この項目は、「権利のための闘争」という法学論諸とつながった内容になるのではないか?うむ、まずはこれを読みきってから彼について考えていこう。


歌舞伎町有名店プラウディアA
 あっしの姉貴分・一ノ瀬萌姐さんが他のテーブルをまわってはる間、ヘルプでついてくれた嬢お二人も素敵な方々でした。タイプでいうとちょいギャル系、ほんのり癒し系と極端でしたが、二人とも落ち着いてましたね〜。話していても「その辺のキャバクラ」とは違う雰囲気ってのを感じましたね。受け答えも丁寧で接客レベルとしてもしっかりしてはる。ミナミでわいわいやるノリに慣れてしまった私にはかなりの新感覚。歌舞伎町のキャバクラってやっぱりレベル高いんだね〜。ミナミはミナミで楽しいしそれでいい。私が行くズーは大箱でノリノリ型だから。ただ、プラウディアはテーブルごとには賑わっていても全体としては落ち着いた雰囲気がある。これが歌舞伎町の有名店なんだって雰囲気が伝わりました。あと、周りのテーブルを見ても所謂「はずれ嬢」というのがいなかった。周囲の観察は冷静にしていたはずなので、見落としはないかと?

 お二人ともそれぞれ話をしていたことですが、改めて「キャバクラを哲学的に考察すること」から理想のキャバクラが見えてくるのではないかと思います。こういうちょっとランクが上がる店ならば嬢に話を振ってみてもよいのでは?いや是非振りましょう。恐らくプロ意識も高い嬢がその辺のキャバクラよりいてるでしょうからお互いに「役立つ」ネタ話にもなるかと?歌舞伎町有名店は、他にもナウ、ディアレスト、摩天楼、アマテラス等聞きますがこれらの店ならばどこでも「嬢との真面目なキャバクラ哲学理論」が展開できるはず。

 そして、勿論値段も決して安くはない。大阪ミナミでは普通のランクが指名なし平均8000円、指名つき10000円ちょいで十分満足するキャバライフが可能。高級キャバクラとなると指名なし12000円くらい、指名つき15000円くらいとなります。プラウディアで今回指名1時間だと15000〜16000円ってとこでした。そりゃ女の子の全体平均レベルも高いよな。キタのおハイソなところとランクが一緒ですから。歌舞伎剣でイッパイ勝たないときついわい。

 ただ、「キャバクラについて真面目に探求してみたい」ならば歌舞伎町の名の知れた店はいくべし。そう思わされました。


歌舞伎町有名店プラウディア@
 歌舞伎剣の成績が思った以上だったので、唐突に逝ってまいりました歌舞伎町。勿論一ノ瀬萌姐さんの舎弟になるため。へい、このブログを作るきっかけ・あっしが漢を目指すのに多大なる影響を与えてくれたお方なのでめっちゃ緊張しましたよそりゃ。緊張をほぐすため、お店の前に行くまでに心の中で「ヴァンダレイ・シウバがぎらついた眼で入場するシーン」を妄想して落ち着かせようとしました。まぢです。

 扉前の黒服さん、さわやかに接客してくれますね〜。さすが有名店。姐さん指名を伝えて門をくぐったら、んん???いきなり御本人様その他嬢の方々といらっしゃいますやん?しかも、姐さんなんかあっしを見てびっくりされてます?????そりゃ、武装戦線丸出しの格好+シルバーじゃらじゃらの変態が入ってきたんだから普通の反応だよな、うん。で、わしいきなり予想外の御本人様との対面だったので緊張マックスであります。

 ですが、姐さんのゆるゆるオーラでええ感じに緩和されました。ブログを拝見する限りでは「けじめと品格と女としての目指す頂を高く持つ厳しいお方」のイメージもあったわけですが、ええ感じにイメージを壊してくださいました。姐さん曰く「ブログのイメージが全然わかないと言われる」とのことでありますが?いやいやゆるゆるトークを見せながらも、おっしゃる一言一言を細かく分析したり、私のへんてこ「理想の男女論」に対して数々の鋭い切り替えし・・・・・・・。

「うおぅ、全然ゆるゆるちゃうですやん!!!!!」

 まぢで脱帽です。ええ、やっぱりゆるゆるそうに見せてもしっかりと「考える癖」を実行されているんですね。確認した私が馬鹿だった・阿呆でございました。つうか私がこれの元をつくるきっかけとなったお人なんだから当然だよな。私なんかよりもずっと長い間「考える癖」を実行されてるんだしそりゃあ・・・・・・・・。

 うむ、姐さんとの「漢と姐」議論も出来たし授業料以上の収穫はあった。そして、私の後半のヤバイ・恥ずかしい暴走トークっぷりも・・・・・・・あうあう、穴があったら入りたひ(ToT)。そして私はまだまだ漢修行が足りなすぎる(。-`ω´-)ンー。対談できたことで余計自分を磨かなければと刺激になりました。そして、改めて姐さんがブログでぶっちゃけている通り素で「かわいい・エロい女の子大好き!!!!!」っていうのが分かりました。うん、私が「おっぱいよりもたくましい大胸筋を触りたい!!!!!」のと一緒だ。をを、なんか匂いが近いんでなかとですか?

 というわけで、女の子で是非とも「萌姐さんに会いに逝きたい」と言う方は是非来月までに逝って下さい。姐さんはある意味野郎のファンが来るより喜ぶはず・・・・・・・。

 では、ブログネタ用に撮りました姐さんの素敵なお写真を貼ります。



ああ、わしのむっさい横顔が邪魔ですな(汗)


姐さんのキメる瞬間でごぜえやす
うむ、笑顔が素晴らしきお方です


 あと、許可も頂けたのでこのブログから姐さんの住処にもつながるようにします。自分も啓蒙されたい方は男女問わず必見ですぜ(。-`ω´-)ンー 


2008年06月13日(Fri)▲ページの先頭へ
ジャグラー軍艦マーチ
 これは昨日素直にうれしかったです。今の5号機ジャグラーで1Gビッグかますと昔のホールでおなじみのこの音楽。払い出し音が「ジャンジャンバリバリ」ってのもおもしろかったです。ま、今のジャグラーはお遊びと割り切りますが時にはジャグ連でもっこりと増えてくれます。最近ジャグラーの面白さに再び目覚めつつあります。

 4号機時代、私はGoGoジャグラーspから始まりほんとに若者がいなかった時期からおいしさと完全告知の面白さにはまり、ガールの頃はあの告知音にジャンキーとなっていました。スロニート時代、ジャグは主力でもありました。ほんと、設定4以上でフル攻略110%以上は甘かったんですよ。

 歴代のジャグで、私はやっぱりジャグラーガール大好きです。今のジャグラーよりもめっちゃ衝撃の告知音。分かっていても毎回びっくりしたものです。半分寝ていたときは目覚ましにもなりました。そして、歴代ジャグの中でも初代並に荒かったような気が・・・・・・・?

 うん、では思い出はこのくらいで。今日は休みなのでこれから、歌舞伎剣でまったりとそして勝ちを狙いに本気勝負いきます。


2008年06月12日(Thu)▲ページの先頭へ
自己満足と権利を守ること
 これは人間として両方兼ね備えていること。自分の欲望・自己満足を追い求めるために、人間は権利を主張する。ただし、これは人類60億人いれば60億通りの権利主張がある。そのなかには他人を蹴落として自分さえよければいいという行き過ぎた自己満足がある。

 人間は万人の生活・安全を守るために法を制定した。法は万人が快適に生活するための基盤である。法があるからこそ殺人・詐欺・強盗・傷害などが取り締まれるのであり、これら法はさまざまな議論あって勝ち取ってきたものだ。法学者イェーリングによればそれら法はこのように闘争によっての賜物だという。まあ、国会の議論は闘争といってもいいものかな?暴力ではなく言論での闘争とも言えなくないよな。

 おそらく、昨今の通り魔事件や凶悪な殺人事件により「死刑廃止論」も論争が巻き起こっていくことだろう。これも立派な闘争ってことか。その結果によりこれに対しての法案がまとめられるのだな。それを100年以上前に定義していたこの人すごいよな。改めて思うね。殺人者の自己満足と権利主張により他人は蹂躙され生きる権利まで奪われた。もし法がなければ人類は滅亡するだろう。それを避けるための法。万人が安全に生活できるためのもの。そう考えたらいかに法を犯すことがいけないことか。容易に想像できるだろう。

 自己満足と権利を守ること。そのためには法を守らなければならない。それは万人の生活を脅かさないことが結果自分の生活の安息を永らえるのであるから。


人間だからこそ必要なもの
 唯物論という考え方がある。物があるという前提で論議する考え方である。もともと私は理系の大学出身のためこの立場の考え方を好んでいる。よって、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という考え方に納得できなかった。ちょっと難しいが、唯物論の反対とされるのが観念論らしい。デカルトは観念論側かな?

 昔はプラトンのイデア論もわからなかった。観念論的な感じがするから。アリストテレスは師を批判し「美しいものの根本にこそ美しいとされる元が存在する」といった「原因論」を展開した。古代でもっとも有名な唯物論かなあ?と個人的には思う。彼によれば物事が何でできているかが「質料(因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源は「動力因」、そしてそれが目指している終局が「目的因」である。ただ、今は両方の言い分がなんとなくわかる。まだうまく咀嚼できてはいないけど・・・・・・・。

 これらのことは、わたしにとって「物事の根本は人間があること」からすすめていくべきと思う。人間であるからこそ、物を定義しイデアや原因を定義するのではないか?人間の脳・理性あるからこそ物が定義されたのではないか?人間の「考える癖」あってこその賜物が哲学ではないか。仮に椅子があるとして、動物のままの脳であるなら、人間はそれを椅子と定義しないだろうし椅子としての目的も使い方もわからないだろうから。

 哲学って、すごく難しい。けど、人間が生きるためには必要不可欠だろう。人間であるゆえに人間は苦しみ、悶え、暴走する。前回秋葉原通り魔事件は人事じゃないと書いた。彼の生い立ちや経歴は私と似通ったところが多いから。彼はもともとまじめな人間だったのだろう。そして、考えすぎた人間だったのかもしれない。私は以前から「考える癖」が大事だと書いている。ただ、やはりなんでも行き過ぎるのはよくない。一人で悶々と考えすぎると暴走に行き着くのだ。それを回避するのが哲学ではないかと個人的に考える。

 人間が脳を、理性を持ったからこそ哲学、そしてそこから諸学問が生まれ発達した。そして今日の我々の生活基盤となりえた。だからこそ、人間は「考える癖」を放棄してはならない。ジョン・ロック「人間悟性論」では重要な内容がある。物事を議論する前に自分たちの「考える力量」のレベルを知らなければならない。でなければ議論の幅が狭まり高度な議論は望めない。ああ、まさしく「考える癖」を普段から怠ってないかがそのレベルを高く持っていけるのであろう。「考える癖」があればあるほど同じ経験でも吸収する容量は大きくなりそれだけ人間として成長できるのだ。

 我々は人間である。人間であることはどういうことか?いかなるときもそれを忘れてはならないだろう。


2008年06月10日(Tue)▲ページの先頭へ
秋葉原通り魔殺人事件はひとごとではない
 事件を起こした被疑者がやったことは許されざることである。しかし、彼の生い立ちが報道されるにつれ、ひとごとではないように感じている。中学時代まではいわゆる優等生。真面目にすることが人生を明るくすると疑わなかった。高校→短大→今とどんどん挫折と敗北感の負のスパイラルから抜け出せなくなっていく。私も、中学時代に一週間位家出して関西を転々としていた過去がある。真面目に勉強することの意味が分からなくなったこともあるし、大学院も無意味さを感じてやめた。うん、真面目に考えすぎたから人生に生きがいがもてなくなったのかな。同情してはいけないが、彼の負のスパイラルはちょっとだけ理解を示せるかもしれない。自分と似た経験がたくさんあったから。

 彼のケータイ掲示板での鬱な書き込み「自分は不細工だから・・・・・・、女なんて出来ない・・・・・・、人生疲れた・・・・・・・」等。うわぁ・・・・・・・、ワシも過去おんなじこと思ったことあるよ。ただ、私がそんな状態から立ち直ったのはパチンコ・スロットとPRIDEがあったから。そして我妻涼を知ったから。ヴァンダレイ=シウバの心・肉体的強さ、格闘技の世界観、高橋先生の漫画の漢達、こういうものを知ったらそれまでの自分がいかにちっちゃいか、そんなことで悩むのがあほらしくなったよ。彼の場合は、立ち直るきっかけを探すことすら放棄していたのだろうか。それともその気力さえなくなっていたのだろうか?

 昨日もミナミで、Y嬢やショットバーのマスターとか色々な人たちと「人間について」「恋愛と考える癖について」など哲学的議論になったなあ・・・・・・。倫理と人間についてマスターと論争しているときにこの事件の考察もしたよ。追い詰められているときこそ、「考える癖」を放棄しないよう理性を保たねばならないんだよな。すっごく難しいんだけどな・・・・・・・・・。この事件がきっかけで、また哲学書・思想系統の書物を読んでいる。人間は学習を放棄したら終わりなのだから・・・・・・・。


2008年06月08日(Sun)▲ページの先頭へ
殺人は何故いけないのか
 秋葉原通り魔事件は、衝撃の一言で片付けるわけには行かない。池田小通り魔事件から丸七年の同じ日。同じ悲劇が秋葉原で起きた。一人の人間のエゴで多くの人間が犠牲になった。被害者に哀悼の念を示す意味で急遽「殺人について」考える。

 自己の権利が蹂躙されるならば、それは自己の人格までも脅かされる故に権利のために戦わねばならない。これはドイツの法律家イェーリングが述べた主張である。現行犯の男が何を思ってやったのかは分からない。日研総業という、派遣である意味有名なところでストレスがたまっていたであろうことは想像できる。しかし、他人を巻き込んでいい権利はないはずだ。こういう輩がいるからこそ、死刑廃止論に待ったがかかるのである。

 殺されるという危機に直面したら、こちらも相手を殺す覚悟で立ち向かう。これが正当防衛である。誰だって死は怖いし痛く・苦しい。極限の苦痛だからこそ誰もが標的にされたくないのだ。だからこそ正当防衛というものが認められている。「自分がやられたくない」からこそ殺人はいけないことである。たとえどんなに苦境に陥ろうとも、殺人はいけない。勿論自殺もいけない。

 これを読んでくれている方に、まずやってもらいたいこと。特に追い詰められている方にやってもらいたいこと。

「自分で思いっきり自分の顔面を殴る」
「自分で思いっきり自分の腹筋を殴る」

 手加減せずにやってみてほしい。まず殴るという時点で痛いことがすぐわかるので、無意識のうちに加減するだろう。でも、怒り狂ったら他人には出来るんだよな。人間って怖いものだ。この上記の行動をやってみると、他人に暴力を振るうのはいけないなって思うよな。それを忘れないでほしい。でも、殺されそうになったら手加減してはいけないと思う。何もしなければ殺されそうなときにそんなこと考えていたら殺されてしまう。不謹慎だが、私は身の危険を感じたら手加減しない。自分がされたくないことをしてしまうだろう。というか、過去やっちゃったことがある。絡まれて急所を手加減せずにぶったたいて何とか逃れた話をしたときは、友人にはかなり注意された。苦痛が半端じゃないのが分かっているからこそやったのである。ただ、自分から危害を加えようとその知識を悪用してはいけない。それだけは守る。

 遺族の側に立ったら、私は自分を抑えられないだろう。犯人を見たら嬲り殺しにしたいと思うだろう。凄い不謹慎なことばかり書いているが、それが人間だ。これを読んでいる方は、どうか殺人を犯さないでほしいと願っている。


ヴァンダレイの心の強さ
 ヴァンダレイ・シウバは見事復活して強敵ジャーディンに勝ちました(5月のUFC84)。しかし、もし負けていたらUFCとの契約解除が確定していたというまさにがけっぷちでした。いまのUFCは世界中からトップ選手が集まり、2連敗したら即契約解除という雰囲気が漂っています。現に同じUFC84で試合をした中村和裕やティト・オーティズは契約終了らしいです。まあ、ティトの場合は他にいろいろと事情があるわけですが・・・・・・・。

 UFCは今とにかく「負けてもいい試合」をしたからといっても負けは負け。純粋な勝負論の世界になっています。UFC再デビュー戦・VSリデル戦の試合も年間ベストバウトといわれるほどの面白い試合でしたが、それでも今回の結果次第ではシビアなことになっていたとは・・・・・・・。ズッファ社(UFCの興行会社)代表ダナ・ホワイトはかなり調子に乗ってるなあ・・・・・・・・と個人的感想をこぼします。奢れる者は久しからず。現にランディー・クートゥアーおじさんのように不満を持って離脱する者がでてきていますからねぇ。この格言を頭においてほしいものです。ヴァンダレイまでもが不当な扱いされたら、わしゃ許さんぞ!!!!!

 とにかく、ヴァンダレイはそんながけっぷちでも守りに入らず攻めて攻めて強敵を打ち倒しました。試合前のランキングではジャーディンのほうが連敗中だったヴァンダレイより上でした。入場でも観客ウケがよく人気はアメリカでもありましたが、圧倒的不利な状況でした。彼の勝利はまさに技術よりも「心の強さ」が呼び込んだもの。動画を見たらかつての彼が戻ってきた・初めて彼を見たときの衝撃が甦りました。「ブラジルの悪魔」「斧の様な殺人者」といわれた彼のファイト、しかしファイト後はファンに礼・感謝を忘れない律儀さ。そんな彼だからこそわしは惚れたんですよ。

 頑張れヴァンダレイ!!!!!そしてUFCタイトルマッチをつかんでくれ!!!!


人間関係の洗濯
 またまた「考える癖」についての話。「類は友を呼ぶ」、「牛は牛連れ馬は馬連れ」といったことわざがあるよう、似た傾向にあるものは自然と寄り合いやすい。そして、「朱に交われば赤くなる」という項目とも非常に関連深い。

 人間は、いくつもの出会いと別れを経験する。友人との出会い・時には絶交もあるだろうし、恋愛での出会いと別れもいくつもある。結婚ですら最近は1/3が離婚確率ありという。そこで大事なことが上のことわざ・格言である。友人を見ればその人のおおよその傾向、性格、生活習慣が読み取られてしまう。そして、似た傾向の友人に囲まれてばかりだと価値観が固まってきてしまい自分も周りと同じようになってしまう。これは結構当てはまりそうである。学校での友人達の集まり、グループってそうだろう。政治だって政党や派閥がこれらの格言を証明している。

 故に、自分の成長のためには時として人間関係の洗濯をしなければならない。特に、「考える癖」がない者についてほど洗濯しなければならない。これがないとさまざまな弊害があることは分かるだろう。選択ではなく洗濯。必ずしも切り捨てるわけではない。こちらがまず「相手を変える」ことから手がけようと努力してみよう。何度説得しても相手が聞いてくれない、変えようと努力してくれないとき。そのときやっとその相手を切り捨てるときである。相手は自分言うことをりかいしようと耳を傾けていないのだから当然。そんなヤツは自分にとって害なだけだ。仕事関係のみならば割り切ってしまえばいい。友人だったらもう二度と連絡しないし会うこともない→絶交だ。

 『硬派は友人を大切にしなければならない』というが、自分だけが粉骨砕身しても相手が返そうともしないのでは「友人」として成り立たない。スジが通らない。そういう者はもはや友人ではない→只の他人と割り切ってよい。だから矛盾しないだろう。かつての友人で、絶交した奴がいたがそういう奴だった。あっちは仲直りしたいと言っているらしいが、私はまったく相手にしていない。絶交するきっかけの行動ではなく奴のKY、「考える癖」のなさ、下品さに辟易したのだから。後に別の友人とその話をすると皆納得していたのだから、私が凝り固まっていたわけではないということが分かった。故に絶交にはまったく後悔していない。逆にすっきりとしてわずらわしいものが消えた。

 自分にとってわずらわしい、ストレスになるものを消すためには?時として人間関係の洗濯が必要だ。そして、自分が洗濯されていることすら気付かない→切捨ての対象にされないためには「考える癖」が必要である。


如何に考え、如何に行動するか
 仕事は勿論、日常生活でも「考える癖」があるかないかではまったく違う。そしてその考える癖は、直接応対せずとも読み取られてしまうところが結構ある。以前も取上げたことで、ネットの書き込みの文章は匿名性も手伝ってその人の本性が垣間見えるものと思われる。我々社会生活を営む人間は、寝るとき以外油断してはならない。いつ誰かが揚げ足をとるかわからない。極端だが家族、友人、交際相手の異性以外は寝首をかくものという思いで行動しなければならないだろう。

 こんなことを書くと、このブログ初期によく書いていた「人間不信論」「性悪説絶対主義」なことをまた書き連ねるかということになる。人間ならば、絶対に「信用できる」人間とそうでない人間が出てくるはずだ。当然集団の母数に比例する。故に過去の歴史で戦争や論争が絶えなかったのである。

 人の本性はその本人ですら100%理解できない。故に、他人がその個人を理解するのは到底無理。それは当てはまる。しかし、人間のこころを研究する心理学という学問がある。これは一般的にまとめてしまったものであろうが、「人間の心理について考える癖をもって極めようとする者」が作り上げていった賜物と言えよう。

 ブログを立ち上げ、日記+αとしてのものであるがかなり気を遣う。ブログとしてここに書く以上色々と見る人たちがいるわけだ。その人たちになるべく不愉快な気持ちを与えないよう心がけているつもりである。ネットはある意味日常生活以上に「考える癖」が要求されるのではなかろうか。匿名性故に。まあ、まだまだ人間としても修行中であるが故行き届かない点もあるだろう。あと、ここの内容がマニアックすぎることとここで定義する「硬派」についての突っ込みは勘弁していただきたい。と言うか硬派については過去の記事で個人的定義をしているのでそこを読んでほしい。

 人間は、本当に「考える癖」をつけていなかったら哀れなのではないか?特に、借金がそう。私が日々狂っているパチンコも、考えずにやればあっという間に借金無間地獄。故に、他人の保証以外でで借金地獄に陥った者とは付き合ってはならない。己のせいで借金を重ねた者はその時点で「考える癖」がないことが証明されてしまう。また、若いうちにデキ婚→まもなく離婚経験者もそれがないことが多い気がする。たとえ東大卒でも、それがあるとは限らない。そしてそれがあるかどうかはいろいろなところで査定されるのだ。

 経験上流されっぱなしの者は、「考える癖」がない場合が多かった。まあ、それがないから流れに任せるしかないのであろう。如何に考え、如何に行動するか。これは人間死ぬまでサボってはならない。そして、齢をとるにつれてその差は現れていくのだから。
 


2008年06月07日(Sat)▲ページの先頭へ
キジトラ猫の小梅さん総集編
 総集編2008、コンビニで売られているので勿論買いました。「ねこぱんち」は勿論毎号欠かさず購読しています。そりゃあ、変態といわれるほど猫が大好きだから。表紙の子猫、毎回ホワァンと顔がほころぶほどかわいいです。これが、もしや「萌える」って感情なんですかいね?特に、「キジトラ猫の小梅さん」が鬼可愛い。相変わらずほしのなつみ先生の画力すばらしい。動物を可愛く描くのはかなり難しいと思います。漫画好きの私の目から見て、アレだけかわいく描ける漫画家さんの作品は他に知らないです。

 ああ、3ヶ月くらいのふわふわの子猫と戯れたい。きっと、猫を見るとものすごくホワァンとしてしまうのは私だけではないはず。嗚呼、そんな猫好きのために猫喫茶がもっと広まってほしいです。

 猫は、元来警戒心が強いため街中で見かけてもすぐ逃げられてしまいます(泣)。そういや、この前のミナミに行ったとき、以前年末に寄ったたこ焼き屋さんでであった猫がいなかったなあ。あの懐っこい黒猫はねぐらを変えたのでしょうか?たまたまだったのでしょうか?


2008年06月06日(Fri)▲ページの先頭へ
硬派を目指すためのマズローの欲求
 アブラハム・マズローというアメリカの心理学者が唱えた、人間の5段階欲求説のことを俗に「マズローの欲求説」といいます。これは結構有名なお話。人間の欲求は、5段階のピラミッド構造だという内容です。

 人間の欲求の段階は、下から生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求です。生きるうえでの根本的欲求である生理的欲求と安全欲求は、人間の三大欲求とも関連が深いです。このブログで定義する硬派を目指すうえで、最も大切な欲求は自我の欲求(自分が集団から価値あるものと認められ、尊敬されたいと思う欲求)と自己実現の欲求(自分の能力、可能性を遺憾なく発揮し創造的活動や自己の成長を求める欲求)です。

 その他3つについては、ある程度のところでセーブをかけて生きるのが硬派の方針かなぁ?と思っています。一例をあげていきます。他者が異性と結びつき家庭を作り、一つの幸せをつくっていく。この中には生理的、安全、親和の三つの欲求が含まれているのでは?普通なら疎外感や寂しさを感じ、自分も家庭を持って一つの幸せというものをつくりたいと思うでしょう。私もその感覚がまったくないとは言えません。が、敢えて独身であるほうを選択し、自分なりに新しい価値観を作っていきたい。そのためには色々と我慢しなければならないこともたくさんある。そう感じたからです。まあ、硬派を選んだのは単なる憧れからだったんですけどね。それと、ふがいない・未熟者の自分と武装戦線の漢達を見比べて恥ずかしさを感じたからですね。

 普通の男女と違い、硬派に生きるということはいろいろと義務と我慢を決めて一つの価値観を探していく生き方だと思います。よってちょっとマズローの欲求について考えてみました。


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 管理人・鴉'sについて

 漢・硬派を目指す26歳
 女よりも漢を好む変態!!
 滝川クリステルが最近一押し

 好き 
  格闘技観戦
  格闘家
  CROWS
  QP
  WORST
  キャバクラ調査
  歌舞伎剣
  筋トレ
  オナゴのくびれ
  猫
         等多数・・・・
 
 嫌い
  基本的に赤の他人
  偽善者
  募金詐欺
  自分が馬鹿だと分からない奴

主義
  生涯独身
  恋愛排斥
  目指せ漢

ウイルスは送るなよ!!!!!
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アダルト宣伝系、パチンコ攻略関係は容赦なく削除。リンクフリーです。
 


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あと、ここでは硬派については「恋愛感情そのものを放棄し、ひたすら義・スジで生きようとする人間関係を求める者」「知力、肉体両立したいわゆる男らしい人間を目指すもの」としています。なので突っ込む前にここと過去の記事を読んでくだされ。

カレンダ
2008年6月
         

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